2008年6月20日金曜日

エキサイティング神事「アンバー大杉大明神」

この農村地方には祗園祭り以外に農村地方ならではの神事があった。今は行われていないが、それはエキサイティングな神事だ。


それは、田植えが終えた頃(5月)に行われる神事である。「何という神事か」明確に覚えていないが、ただその全容はこうだ。


この地域の青年団の主催で行われる神事だが、主役はむしろ地元の中学生や小学校の高学年生の子供達だった。だだし全員男子だけであった。


10メートル程度の杉の木(定かではない多分そうだと思う)を近隣の小山から伐採して、その枝に半紙で作った「白い神紙」をまんべんなくククリ付けたものが、オミコシ(御輿)の替わりになる。


その杉の切り株の太い方(根本の部分)を荒縄で縛り、荒縄は左右に4~5メートル延長される。その左右の荒縄を数人の屈強な青年団員が数人で持って、御輿になる杉の木の動きをコントロールする事になる。


そして幹の太い部分から高学年の中学生、そして小学生順に低年齢化して30~40人で、杉の木の幹や枝を持ちたづさえる。


その周りを、20人前後の男子青年団員がカネや太鼓を打ち鳴らしながら、子供達を取り囲み、その全員が大声でノリトを唱えながら200~300所帯の農家を、一軒一軒練り歩く。


ノリトだけは、ハッキリ覚えている「家内安全、アンバー大杉大明神」だ。この「アンバー大杉大明神」の神事は、私が中学生になった時にはもう立ち消えに成っていたから、神事の意味も「アンバー大杉大明神」の意味も不明だ。


ともかく「アンバー大杉大明神」と唱えながら、奥山地区にある神社(小高い山の上にある)から午後の4時頃にスタートする。その神社は、寺と同居していて山門や境内があり、ウッソウとした木々に囲まれている。


その境内の中央に、大人5人が両手で囲むほどの、大きな木があったが、それが「杉の木」だったか、定かな記憶ではない。


その山門の両端に、口を大きく開いたアギョウ(阿形)と口を「へ」の字に閉じたウギョウの金剛力士がまさしく仁王立ちしている。


山門を背にして出ると、200メートルほど真南に真っ直ぐ延びる参道があり、その両側は見事な桜並木になっている。


ここは近隣の四つある小学校の花見の場所に成っていたが、この花見では各学校対抗(高学年生だけ)のケンカになるのが毎年の恒例だった。


当時、子供のケンカはどちらかが泣くか、鼻血が出れば勝負ありでそれ以上相手を攻撃する事はない。このケンカもどちらかのリーダーが逃げれば、それで勝負ありでスポーツのようなものだ。
1チームの構成は、腕に自信のあるものだけで15人程度、あとは勝敗を見届けたい野次馬がほとんどだ。


そして、花見の翌日は決まって、先輩の中学生に「今年は勝ったか?」と聞かれる。
前年勝利していた先輩達に聞かれたりすると、何も言えずうなだれてしまう。
「何だ、負けたのか? だらしねーな」と一蹴される。先輩達は、5年生に向かって「来年は勝てよ!」と叱咤する。


そんな事でこの神社は、この地域では子供の頃から村中の者達が親しんでいた。
その桜並木を通って約2キロほどは、林や畑の中を軽自動車一台が、ようやく通れる程度の細い道を「アンバー大杉大明神」と叫びながら「南」と言う地区に向かう。そして「片町」、「宿」と練り歩いて「奥山」に戻る頃には深夜の12時頃になる。


当時の農家の垣根はほとんどが「竹組」や「生け垣」で出来ていたから、杉の御輿が入る時、垣根を壊してしまうこともあったが、それはそれでお目出たいことであった。


この地域の夜は、明かりと言えば星と月明かり、音は「虫の音」「カエルの声」ぐらいで何もないが、この日の夜は賑やかだった。


遙か遠くから「アンバー大杉大明神」の怒声とカネ太鼓が聞こえて来る。そして我が家の近くにある休憩所からはモウソウダケ(孟宗竹)を叩く音が聞こえて来ると、あまり遅くない時間であれば近所の子供達がその休憩所に向い、担ぎ手を出迎える。


この地域では子供の火遊びと夜遊びは、決して許されなかったがこの日は、この御輿が来るまでの間の夜遊びは例外だった。


我が家に初めてこの「アンバー大杉大明神」が来たのは8時頃だったと思う。
大家の庭から我が家の狭い通路に、御輿が入りきれずに少し放れたところで「家内安全。アンバー大杉大明神」と唱えてくれた。


そして、少し遅れて現れた二人の男に、母「トシオさん。有り難う御座いました」と当時、青年団の団長だったトシオさん(ミッちゃんの旦那さん)に「ご祝儀」を手渡した。


トシオさんは、私の姿を見ると「タカシくん幾つだっけ?」。母「来年、一年生よ」。
トシオさん「そうか。ジャア、来年はここの組合だけ『アンバー大杉大明神』しようか?」。私は嬉しくなって「うん」。


母「あら! タカシ良かったね」。私は一人前扱いされたことが、嬉しくて舞い上がりそうだった。


組合とは冠婚葬祭に協力し合う「頼もし講」だ。我が家の近所隣り10所帯程度が組合だった。


その「アンバー大杉大明神」の休憩所には、オニギリ、味噌汁や酒などが用意してある。その仕出しの準備は女性団員の役割だ。


御輿の担い手が残したものは、その地域に子供達に分け与えられるが、始めからかなり多めに準備されていた。煮詰めた油揚げ、糸昆布、人参、ゴボウなどを、ご飯に絡めて作ったそのオニギリは、当時私がそれまでに食べたオニギリの中で格段に美味しいものだった。


この「アンバー大杉大明神」で若い男女の親交が深まり、恋愛結婚するカップルもしばしばだった。ミッちゃんとトシオさんも「アンバー大杉大明神」が取り持つカップルだった。


ミッちゃんの家は農地解放(戦後)の前は、トシオさんの家の小作人(耕作地を地主から借りている農業者)だった。従ってミッちゃんは玉の輿だった。


母は「カツギ屋さん」で運ぶコメを、定期的にトシオさんの家から買っていたから、私はそれまでトシオさんに何度も逢っていて「カッコイイお兄ちゃんだな~」と思っていた。


母は、コメの仕入れで値切った事が一度もなかったから、地元の農家でも人気があった。
御輿の担ぎ手は、ほぼ4年生以上だったから、トシオさんが私を誘ってくれたのは特別の事だった。

2008年5月31日土曜日

ワクワクさせる祭りの笛や太鼓の音

我が家がある、この地方には幾くつかの「祭り」があった。秋の収穫後の10月頃には「祗園祭り」がある。

この祭りは3日間つづくが、200所帯程度の三つの隣あった集落に、それぞれ「この祭り」はあった。
集落はお互いの祭りが、かち合わないように4~5日づつ、ずらして行われていたから、ほぼ一ヶ月は笛や太鼓の音が夜半まで聞こえてた。


私は、この時期が好きだった。娯楽らいしいモノは何もない、この地方の日々の生活の中で、祭りは唯一の娯楽だった。


地元の祭りでは、腹に響く太鼓の音、軽やかに舞うように響く笛の音が間近に聞こえる。隣の集落の祭りでは遠くから、時折り風に消されたりして、笛や太鼓の音が響いて来る。



そんな祭りの匂いが、私の子供心をワクワクさせてくれた。そして、祭り気分に浸っている母や大人達も、いつもより、ハルカに笑顔が多く、心が沸き立っていることを感じさせた。


毎年、集落毎に祭りのデキバエをを競い合っていた。
多くのデミセ(出店)もあり、舞台が設置され「奉納の舞い」もあり、「武将に扮した者が、馬上から弓矢でマトを射る競技」もあった。


この弓矢でマトを射る競技を始めて、しかも間近で見た時、その迫力に私は圧倒された。
遠くから砂煙を上げて走り来る「馬上の武将」が、20~30メートル毎に置かれたマトを、次々に射抜く様は子供の私を圧倒した。


目の前を通過する騎馬の足音は、大地をトドロカセて私の足下から全身に鳴り響びいた。「パシッ」と言う音が空を切り裂くと共に、射抜いた矢にマトが割れて飛び散る。


馬の響きが遠ざかる。砂煙に騎馬と武将が遠ざかる。「パシッ」。次のマトが飛び散る。もう砂煙に騎馬がかき消える。さらに遠くで飛び散るマトだけが見える。


この馬駆けは、私の子供心を圧倒した。そして、大地をトドロカセた「全身の響き」が鮮明に残る。その興奮の記憶だけは、今も鮮明に残っている。


それぞれの集落には、それぞれ神社がある。この神社が京都の祗園社と、どのようなツナガリがあるかは知らない。


また、京都の祗園祭りも現実に見知っている訳ではない。しかし、この祭りは規模こそ小さいがテレビで放映される京都の祇園祭り、さながらであった。


そして、「今年は『立木』の祗園が一番だっぺ!」。「ウダ。今年は『立木』に負けたな!」とそれぞれが、思い思いに、それぞれの集落の「祗園祭り」のデキバエを批評する。

2008年5月22日木曜日

「もったいない」は日本人の文化か信仰か!

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戦後、占領軍(GHQ)によって農地解放が行われたことは誰もが周知の事だ。農地解放から1000年ほど、さかのぼっると平安時代だが、この時代に年貢米制度が確立された。

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以来、農業従事者は、自分たちが作った米を租税として、厳しく大名に納めさせられた。この時代から、農地を持たない「小作人」の中には一生の間に一度も白米が、食べれない者も珍しくなかった時代があったようだ。

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私が見た幾多の時代劇映画の中で、彼ら「小作人」が病床での断末魔の言葉は「白いご飯を食べて死にたい」だった。

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この断末魔の言葉は、あながち全くのヒクションとも思えないが、この時代あたりから「もったいない」の語源が生まれたかもね!

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「かつての日本人」の米(稲作)に対する思い入れは、文化と言うより宗教に近い。その証拠に各地にある祭りは稲作と深く関わりがある。

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その年の豊作を願う祭りがあると思えば、その年の豊作を祝ったり、感謝したりの祭りある。よく知らない外国人は日本人を無宗教と言うが、日本人には稲作に深く根ざした宗教が、かつてあった。

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だから、稲作に関わる全ての現象(森羅万象)を、神とアガメル多宗教が真実の日本人だ。「かつての日本人」は、この世の全てに神仏を見た。

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雨の神、風の神、雪の神、川の神、山の神、海の神、太陽、月、星、キツネ、タヌキ、馬、牛、イヌそして草花にも、何にでも神を見た。

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「草花にも話しかけるのは日本人くらいだ」と言った韓国人の友達がいたが、本当かも知れない。最近、私もブッカ(仏花)に話掛けて、ハット我に返り、その友達の言葉を思い出す。

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多分、欧米人には理解されないと思うが、稲作などの小道具にも「かつての日本人」は神仏を見る。それ故に老朽化して、どうにも使えない小道具をそのまま捨てることはない。
その農具を取っておき、毎年決まった日に神社に奉納してマツル(祀る)事で、長年の労に感謝する。

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衣服を縫う「ハリ」を供養する神事もある。ハリが折れても、そのまま捨てないで取っておいて、毎年決まった日(2月8日、12月2日)に「柔らかい豆腐やコンニャク」にさして神社に奉納する。

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唐獅子はライオンの存在を唐(中国)から伝え聞いた「かつての日本人」のイメージから作り出された産物だと聞くが、その想像上の唐獅子でさえ神社の守り神に成っている。

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なんと言っても究極は「道祖神」だろう。「かつての日本人」は徒歩で旅行く、その道すがら「道の神、道祖神」に「旅の安全」を祈願した。

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先人が作ってくれた、この道は最初はただのケモノミチ(獣道)だったかもしれない。その獣道を幾多の先人が踏み固め、踏み固て「道」にした。

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多分「かつての日本人」は、その先人達の労苦や思いに感謝して「道祖神」を作ったのではないか。
こんな日本人だから、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝う事に何のわだかまりも、持たない。もちろんイベントとしてだが。

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誰かが、何か(キリスト、ブッタ、マホメット)を大切にするなら、それに異論はないし、それを尊重するし、それを敬う事も出来るのが日本人の特徴だ。

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宗教的にいい加減な、日本人の神は「森羅万象」だから、タヤスクそれが出来きる。誰かが言っていたキリストもマホメットも砂漠の神だが、砂漠の神は過激で争いが絶えない。

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しかし、日本人のようなカリスマを持たない、いい加減な宗教(神は森羅万象)が、もう少し世界中に普及したら世界は、もう少し平和になるかもね!!


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2008年5月18日日曜日

重労働の農作業と『もったいない』

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母「今日、トシオさんも一緒に来ていると良かったね。もうシロカキでいそがしんでしょうね?」
姑「シロカキやら。田植えの段取りで、助っ人の手配もあるし大忙しだっぺ」

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我が家は農家の集落のど真ん中に住んでいたが、全く農地を持っていなかった。従って稲作の実務について私は無知だが、カタワラで観ている範囲の知識では、次のような行程があるようだ。

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①田うない
昨年の稲刈りのあと秋、冬の間、放置してあった田は、雑草などが生えて土壌は硬くなっている。それを掘り起こし、田の土壌に充分空気が入り込ませて、土壌が水を含みやすくする。

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「うない」また「うなう」とは、土を掘り起こすことである。当時はトラクタのような農業機械がない時代だから40~50Kgもありそうな「大きなシャベル」を農耕用の牛や馬に引かせて、「田うない」をしていた。

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ちなみに、馬は牛の二倍近いスピードがあったようだ。ただ馬は情緒が牛より不安定で扱いは、難しいようでもあった。

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しかし、牛や馬を飼っているのは、大耕作地を持つ比較的に裕福な農家だった。普通の農家はこの作業をマンパワーで行っていた。

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②シロカキ
「田うない」の後「田んぼ」に充分水を引き込み、土壌に冠水させた後、大きな鋤(スキ)を、やはり牛などに引かせて、土壌の粒子を細かくしてドロ状にする。

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ドロ状する事で田植えの時の「苗」が土壌にササリ易くする。

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③苗作り
昨年収穫した「種モミ」を「上質な田」を選んで、その一角に蒔いて苗を作る。
今はビニールハウスに「苗床」をつくって、そこで苗をシッカリ育てるから、苗の「出来、不出来」はほとんど発生しない。

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しかし当時は、その年の天候次第で「出来、不出来」が左右された。

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④田植え
シロカキの済んだ田に苗を植え付ける。田植えは一定期間に一斉に行うが、今は「田植え機」と言う便利な農機があるから二町歩(19,800hm)程度の田植えは、一週間もあれば終えてしまう。

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しかし、当時は人海戦術であった。この作業は、水の中で一日中、腰を曲げてする重労働であった。しかも田植えは、一度始まれば休むことなく一気に済ます作業でもあったから、雨の日も、風の日もこの姿勢で作業をする。

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ミッちゃんの家のように大農家は、期間限定で大勢の「田植え職人」を毎年雇っていた。姑の言う助っ人とは、この「田植え職人」の事である。

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一つの「田んぼ」の一方のハジに、5~6人程度の「田植え職人」が、横一列に並んで苗を植え進んで行く。手持ちの苗がなくなると、その「田んぼ」の所々に配置してある苗のタバを取って、更に植え進んでゆく。

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「田んぼ」の一方の先に行き着いた「田植え職人」は、また横一列になって、今来た「田んぼ」のハジにむかって植え進んで行く。

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職人達は思い思いに、手ぬぐいなどを頬カブリして、衣服の尻をハショッテ、この作業をモクモクと繰り返すのが、当時の田植え風景だった。

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当時は、こんな田植え風景が一ヶ月以上続いた。そして、大農家は優れた「田植え職人」を田植えの一番よいタイミングに雇い入れる事が重要な仕事であった。

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当時、農家の田植え期は、多忙の極みであった。定かではないが「ネコの手も借りたい」の語源は田植えの忙しさから来たとも聞くほどだ。

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⑤草取り・・・・雑草を取り除く作業。

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⑥肥料をやる・・・・ここまでは梅雨が明けるまでの作業だ。

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⑦水抜き・・・・田から水を抜いて稲穂だけに栄養が集中するようにする。

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⑧稲刈り

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私が物心が付いた程度の幼い頃。「ご馳走様」とチャブ台に置いた私の茶碗の中を見て、母が「タカシご飯をキレイに食べなさい」と言って私の茶碗にサユを注いだ。

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母は「お米はね。お百姓さんが、なが~い間、大変な苦労をして一生懸命作ってくれたものなのよ。残したりしたらバチがあたるよ」と言いながら、私の茶碗をとって注いだサユと箸で茶碗にへばり付いた、ノリのような小さなご飯粒までを、茶碗の底に洗い寄せて行った。そう母の作業は茶碗の中をサユで洗っていた。

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そして、それを私に差し出して「『もったいない』からキレイに食べなさい」と言った。

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私「カーちゃん。これでいい?」。母「うん。いいよ」と優しくほほえんだ。私は母のほほえみが嬉しかったそして『もったいな』の言葉が私の心に刻まれた。

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これも定かでないが日本の『もったいない』の語源は多分、稲作の重労働から生まれた「お米」への畏敬が由来ではないか!

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2008年5月12日月曜日

母の手技、マッサージでついに母乳が出た。

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母はミッちゃんの左胸に再度、ガラスのラッパをあてながら、ゴムボールを握り始める「もう少し、放って置いたら乳腺炎になるところだったね」。ミッちゃん「乳腺炎!」

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母「お乳が通ってくるクダを『乳腺』と言うだけど、そこに古いお乳が残って『乳腺』が炎症を起こすんだよ。そうするとスゴク痛いし、ひどくなると抗生物質と言う薬を飲むから、赤ちゃんにオッパイもあげれなくなるんだよ」ミッちゃん「えー。怖いですね」

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母「こっちのオッパイの方が右より張るでしょ?」。ミッちゃん「はい」
母「赤ちゃんにオッパイあげるときは、こっちのオッパイから先にあげるようにしたらいいよ」。
ミッちゃん「えっ? はい」。

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母「こっちのオッパイの方が出が良いのは、分かるよね?」。ミッちゃん「はい」
母「だからこっちのオッパイの方が乳腺にオッパイが残り易いし、乳腺炎に成り易いことなのよ」。
ミッちゃん「そうなんですか」

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母「赤ちゃんはお腹がすいている最初、吸う力が強いけど、お腹がクチクなると吸う力がダンダン弱くなるの、そうすると乳腺の中にお乳が残りやすくなるのよ。分かる?」
ミッちゃん「あっ、はい。分かりました」

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母「赤ちゃん。生後2ヶ月だったね」。ミッちゃん「はい。2ヶ月に入ったところです」
母「生まれたての赤ちゃんはオッパイを吸う力が弱いから、お乳が乳腺に残りやすいのよ」。
ミッちゃん「乳腺炎に成り易いんですね?」

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母「そうよ。だからお風呂に入って良く暖まったら、オッパイをマッサージしながら搾乳する必要があるのよ」
ミッちゃん「サクニュウ?」

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母「搾乳と言うのは、お乳を絞り取って捨てることなの、これはトシオさん(ミッちゃんの夫)との共同作業なのよ」

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2008年4月25日金曜日

母の手技、マッサージで母乳がついに出た

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母「充分マッサージしてあるから、痛くはないと思うけど、痛かったら言ってね」。ミッちゃん「はい」
母はゴムボールを少し強く握った。吸引器(ラッパ)の中の空気が排出されて、器内はドンドン真空状態になって行くようだ。それにつれ、ミッちゃんの乳房がガラスの中に少しずつ吸い込まれて行く。

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ミッちゃんの左胸から吸引器が、ずり落ちないように抑えていた母の左手は不要になっていた。そして、ミッちゃんの「左乳房の先端」がガラスと一体になっている。

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ミッちゃんの「乳輪のあたりから乳頭」が、吸引器のガラス越しに「網焼きしているオモチ」がフクレタようになっている。そして毛穴までが拡大して見えている。

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母「痛くないよね」。ミッちゃん「はい」。母はゴムボールからも手をはなしてミッちゃんの胸を軽くマッサージしている。

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すると、乳頭の一点から白い液体がにじみ出てきた。母「やっとオッパイが出てきなね」
そして、二点、三点、四点と時間の経過につれて、乳頭から「お乳」がにじみ出てくる。やがて、「お乳」のシズクがガラスの底辺をつたい始める。

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ドンドン「お乳」がでる。ドンドン「お乳」が流れ始めた。そして、吸引器の「ボール場の空洞」の中にたまり始める。

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姑「ミチコよかったな~」と安堵の笑顔で言う。ミッちゃんは嬉しそうに「はい!」。私と姉も妹も「カーちゃん頑張れ」の緊張がほぐれて一緒に笑顔になった。しかし母には笑顔はなかった。

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母はゴムボールのツマミを回した。すると吸引器がミッちゃんの乳房から簡単に放れた。
母は吸引器に洗面器のお湯を入れてススギながら「もう一回ヤルよ」。
ミッちゃん「はい」。ミッちゃんの乳房に「吸引器の丸い跡」がクッキリと残っている。


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2008年4月24日木曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母「ミッちゃんここ痛い?」。ミッちゃん「いえ、痛くないです」。母「ここは?」。ミッちゃん「いえ」
母「だいぶ、いい感じになってきたね」

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母「ミッちゃん、また、さっきのように座ってくれる」。ミッちゃん「はい」
母は洗面器の側にあった小さな木箱を開けた。黄色い木綿の袋から、ガラス製の小さなラッパのようなものを取り出した。

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そのラッパの口元には、ゴルフボールよりやや大きい、ゴムボールが付いていた。その形は、ラッパと言うより手動のクラクション(警笛)に似ている。

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初期の、本当に初期のころの原付バイクのクラクションは、ハンドルに取り付いてあった。そのクラクションは、ラッパの口元に丸いゴムボールが付いた形状で、そのゴムボールを握りツブスと警笛がなるものだった。

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母が取り出した器具は、そのクラクションの金属部分をガラスにして小さくしたものと酷似していた。
クラクションと違うもう一点は、ラッパの開口部とゴムボールの中間に「空洞になった球状の出っ張り」があった。

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母は洗面器のお湯に、その器具の開口部を浸して暖めた。そして、ラッパの開口部を丹念に拭き始めた。
そこにいた全員はこれから母が「一体何をするのか」息を呑んで、その行動を凝視していた。

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そして母「ミッちゃん、姿勢良くしてくれる」と言って、ミッちゃんの乳頭部をそのラッパの開口部の中に入れた。
ミッちゃん「あ、ハイ」。ミッちゃんは、母がラッパを使う意味を理解したのか、胸を突き出すように姿勢を良くした。

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母は、左手でラッパの開口部をミッちゃんの胸に押し当てたまま、右手で茶色のゴムボール軽く握った。
ゴムボールの先端に、小さなツマミがあってそこから空気が抜けているようだった。

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母は、また軽くゴムボールを握る。母がゴムボールを握るタビに、ミッちゃんの乳頭がガラスのラッパの中に少しづつ吸い込まれて行くのが見える。

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2008年4月23日水曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母はその洗面器に鉄ビンのお湯を足しながら、片手で湯加減をみている。
母「じゃー、ミッちゃん。また胸を開いて、今度は仰向けに寝てちょうだい」といいながらサラシを4~5枚縫い合わせたものを洗面器にヒタシ始めた。

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ミッちゃん「これでいいですか?」。母「もう少し下がって。うん、そこでいいわよ」
ミッちゃんは仏壇を頭にして横になったが、仏壇の棚に向かって右下にはタンスが(「)の逆向きに置いてあるため、南からのヒカリが遮断されて、狭い我が家で昼間でも一番暗い位置だった。

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母は湯気のたったサラシを熱湯がハネないように、ゆっくり絞りそれを、ミッちゃんの胸におおい始めた。
母「熱い?」。ミッちゃん「いえ、大丈夫です」

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母はもう一つのサラシをヒタシした。当時、タオル地のものはなかった。多分、タオル布地を大量生産する技術が浸透していなかったのだろう。

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母は、ミッちゃんの胸におおったサラシを新しいものに変えながら「今日は、赤ちゃんどうしてるの」。
姑「出てくるとき、チチをヤッたんだけど、足りなくて泣き疲れて寝ている間に来ただよ」

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母「ジーちゃんが見てるの」。姑「うだ。今頃・・・・」言いかけてやめた。
母「ミッちゃん、今から胸全体をマッサージするけど痛くないようにスルけど、痛かったら言ってちょうだい」。ミッちゃん「はい」

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母は、少し赤く上気したミッちゃんの胸をマッサージし始めた。母「赤ちゃん何ヶ月だった?」。
ミッちゃん「2ヶ月です」。母「初産の子は大変だけど、バーちゃんが色々心配してくれて良かったね」

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ミッちゃん「はい、助かります」。母、姑の方を見て「外孫いたっけ?」母、親しみを込め、少しナマって話す。

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姑「んだ。ノリコが二人とマサコが一人だー。だどもヤッパリ内孫は可愛いなー」。母「うだっぺー」
姑「だけど、男ッ子も欲しいやな」。母「でも、一姫二太郎で最初は女の子がイカッペ」

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姑「うんだ、うだ。男ッ子は育てんが難しいし、女ッ子は大きくナット、カシキ(炊事)やらマメに手伝ってくれっかんね」

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姑「だどもオメラガ、アンちゃんはマメだね」。
母「この子は良く働く子で助かります」母、急に標準語に戻る。

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2008年4月22日火曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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鉄ビンは、全体が鉄でできている。柄の部分も鉄だから、当然素手では熱くて持てない。私は、鉄ビン用の厚手の布を手に取って、鉄ビンを掛けてあるカマドの方に向かった。そのカマドの位置は、母の座って居る位置からは死角になる。

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私が、湯気を出している鉄ビンの柄をツカム体勢に入った瞬間、「タカシ、鉄ビンはカーちゃんがヤルから、お前はバケツを『上がり口』持って来て」と母の声がする。

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私「えっ、鉄ビンはいいの?」。母は座敷からの「上がり口」を下りながら「ヤッパリ危ないから、カーちゃんがやるよ」。私は一瞬に、緊張がほぐれて「うん。分かった」。

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水道などない時代だが、我が家には井戸がなかった。そして大家の井戸は、我が家の裏の竹林の中に有るが、私達家族が住む、何年も前に涸れていた。

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我が家の飲料水は、となりの山田のジーの井戸からもらい水だった。台所から、その井戸まで往復25メートルくらいだが、その水くみは私の仕事だった。

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その井戸はポンプ式ではなかった。5メートルほどの竹竿の細い先に、ヒモで「くくり付け」てある小さなバケツ(約5リットル入り)で井戸水をくみ上げるのだが・・・・。

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その竹竿のバケツを井戸の中に少しずつさげて行き、バケツが水面に付いたら、バケツ寝かせて水を汲んで竹竿を引き上げる。このくみ上げ作業二回で我が家のバケツは一杯になる。

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特別の事がない限り、これを二往復すると「我が家の一日の飲料水」が確保できる。小学校の高学年になる頃には「風呂の水汲み」も私の仕事になった。この仕事は私の腕力と足腰を鍛えてくれた。

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このバケツは、ホコリが入らないように古新聞紙でおおい、いつも台所の入り口に置いてあった。私はそのバケツにヒシャクを入れて「上がり口」に置いた。

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母は、座敷に上がり、用意して有った古新聞の上に鉄ビンを置いた。やはり古新聞を引いた洗面器を私の方にずらして「タカシ、ここに入れて。」と言う。私「どのくらい?」

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母「うん。お前のお茶碗で4杯くらいかな」。私「コンくらい?」。母「うん。いいよ」


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2008年4月21日月曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母「タカシ、カマドの鉄ビン持ってきて。それと洗面器もだよ・・・・」。私「うん」

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我が家の台所(4畳程度)は、母屋(半分はマデヤ=農業用納屋)からのヒサシだが、屋根も壁もワラで覆い、床は土間だった。

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その台所に、鋳物製のカマドが二つあった。一つは炊飯用のカマドで、もう一つは少し小振りにできたカマドで、味噌汁や湯沸かしに使うものだった。

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カマドは台所の中央付近に置いてあるが、火災を避けるために母屋の土壁を背にして置いてある。台所の出入り口を出ると、我が家と大家の家との間に幅1.5メートルほどの短い通路が、庭に続いている。

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台所のワラ壁は燐家との生け垣に続く境だが、出入り口の右端に畳み半畳ほどの「石製の洗い場」があった。その洗い場は、食器、野菜、洗米、洗面はもちろん、当時は裸足で歩くことが多かったが、その足を洗う事もあった。まさしく、なんでも洗う、洗い場だ。

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この農村地域は今でもだが、下水などないから洗い場から流した水の行く先は、1メートルほど掘った穴から自然浸透するのを待つだけだ。当然、夏などは腐った水にボーフラがワキいて、蚊の発生源となる。

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梅雨時などは、その水が溢れて二件の燐家の通路に溢れ出すが、その通路も採石さえ引いていない、土がむき出しの通路で、溢れた流し水を気にも留ず自然浸透を待つだけだ。その洗い場に陶器の洗面器は置いてあった。

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私は、その姑と並んで台所の「出入り口」に居たから、まず洗面器を母に渡した。
洗面器を受け取った母は、姉と並んで座っていた妹(当時4才)に「サチ。アンちゃんのところへ行きな」と言い、妹の手を私に渡した。

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姑が「サッちゃん、大きくなったなー。おばちゃんと一緒にイッペ」と妹の頭を撫でながら、妹の手を握ってくれた。「妹は何が始まるんだろう」と少し緊張した顔だったが、温和しくその姑の手にツナがった。

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鉄ビンは、鉄製のヤカンだからかなり重い、その鉄ビンに1リットルほどの熱湯が入っている。昼食に使ったカマドのオキ火で鉄ビンは沸騰している。

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2008年4月18日金曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母はその嫁の肩を少し触り始めた。母「ミッちゃん、向こうむいて」。母は、向き合っている、その嫁に仏壇の方を指さす。

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狭い我が家に布団を重ねたり、タンスを置いたりすると、使えるスペースは実質4.5畳(15へーべ)ほどしかない。
従って祖父(父方)の位牌は、壁に取り付けた棚に置いてあるだけだが、その棚を我が家では仏壇と言っていた。


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「はい」。嫁は母に背を向けて座り直した。その嫁の姿は母の影で私と姑にはほとんど見えない状態になる。
母はその嫁の肩を、軽く押しながら「肩、張ってるね」。
母は側にある座布団を、引き寄せて「ミッちゃん。胸しまって、ここにうつ伏せになって」。

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嫁「はい」。その嫁は仏壇を頭にして座布団の上にうつ伏せになる。母はその嫁の背中や腰を押し始めた。
母「ミッちゃん、下痢してない?」。嫁、ためらいがちに「少し・・・・」。

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母「いつから?」。嫁が小声で「おとついからです」。
母「えっなに、おとついから!」大きな声で聞き返す。嫁「はい。そうです」

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母、嫁の背中を指圧しながら「食欲もあまりないでしょ」。嫁「はい」
母は姑の方に振り返って「それじゃー、チチが出ないの当たり前よね」。姑「・・・・そうだったの!」

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母、嫁の肩胛骨の裏側を強く押して「これ痛い?」。嫁「はい」。母「ここツライでしょ」。嫁「はい」
母、嫁の腰の部分を押しながら「これも痛いよね?」。嫁「はい。痛いです」
母「これも痛い」。嫁「はい」

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母「じゃー、この肩胛骨を上にして横に寝て」。母、しばらくその部位を指圧したり、揉んだりしていた。
母「少し、楽になったでしょう。身体暖まってきた?」。嫁「はい。あったたまって、気持ちいいです」。

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母「だいぶ、ほぐれたね。じゃやーミッちゃん、またうつ伏せになって」。嫁「はい」
母は、私と姑に背中を向けたまま「痛い」と言っていた嫁の腰を、しばらくの間指圧したり、揉んだりしていた。

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母「うん。背中と腰は、だいぶほぐれたね。じゃー、ミッちゃん今度は、こっち向い座って」。
嫁は、母の方に向いて座りながら「なんだか、身体が軽くなりました」。

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母は、額の汗をヌグイながら「顔色もだいぶ良くなったね」
母「じゃー、また胸出して」。嫁、ハッキリとした口調で「はい」


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2008年4月17日木曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母の手技がマッサージなのか、指圧なのか或いはアンマなのか正直分からない。
現在、法的に手技療法のジャンルは①アンマ、②指圧、③マッサージ、④柔道整復師、⑤理学療法、⑥オステオパシ、⑦カイロプラィック、⑧整体、⑨鍼灸治療などがある。

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近年、注目されている代替療法では、これに「手かざし」などの伝承療法も加える。こうなるとただ手技療法と言ってもかなりの分量でもあり、怪しげな療法も出てくる。

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私は、母が施術している現場を子供の頃に二~三回と大人になって一回見ている。そこから想像すると②と③の指圧とマッサージを合体したような手技と思える。

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ある日、6畳一間に押し入れしかない「狭い我が家」に、うら若い女性とその母親らしいお客が訪れた。
その母親、困惑の顔で「マデヤのカーちゃん。オラが嫁、胸が張ってるだが、チチがでないんだよ。なんとかなるぺか?」

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母はその嫁の方を、優しい眼差しで「ゼンゼンでないの?」
嫁「午前中は何とか出るやが、午後んなるとゼンゼンです」

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母「タカシ、お前そこ少し片付けて、タータ(障害者の姉)を奥へ連れて行きなさい。それでお前はこっちに来なさい!」母はそう言って私に、カマドがある土間の台所の方を指さす。

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母、嫁に「ミッちゃん、ここへあがって来て!」。嫁「はい」。

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母「じゃ。胸出して」。嫁「はい」当時はブラジャーなど、まだ誰も付けていない時代だから、その嫁がカスリの合わせの胸を開くと、手ぬぐいを巻いた中から乳房がそのまま出てきた。

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母は、その嫁の乳頭をみて「まだ、開いていないね」と言う。乳房の上の胸を押して「ここ痛いでしょ」。
嫁「はい」と一瞬顔をシカメル。母「これは?」。嫁「それも痛いです」

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母「じゃーこの腕上げて!」。母はその嫁の、乳房から腕につながる筋をタドリながら押して「これも痛いでしょ」。嫁「はい。痛いです」

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嫁の姑不安げに「チチでるかね?」。母「大丈夫よ!」とキッパリ言う。

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2008年4月16日水曜日

母、マッサージの習得

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かつぎ屋さんは、朝から雨の日は休日だ。それは「かつぎ屋さん」の専用市場が露天で有ることや、駅から客宅まで徒歩で移動するためだ。もちろん、雨でもビジネスに行く「かつぎ屋さん」もいるが、ごく限られたことだった。

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しかし転落事故以後の母は、雨でも東京に出かけた。時にはカゴなしで出かけることもあった。それはマッサージの授業のためだった。

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マッサージの授業は週に2~3回あった。授業と言っても今のように専門学校などない時代だから、腕の良いマッサージ師を自分で探しだして弟子入りするか、知人の紹介で弟子入りする以外に方法はなかった。

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母はあえて、自分で師匠を探し出して弟子入りした。もちろん授業料は有償だが、師匠の都合に合わせてのレッスンだから、師匠から言われた日時に出かける必要があった。

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母が「かつぎ屋さん」に疑問を持ったとき、なぜマッサージ師になろうとしたのか、母の口から聞いたことはなかった。しかし、多分「富山の兄」の影響だと思う心あたりがある。

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母の兄弟は10人くらいいて、20才ほど年上の姉がいるが、あとは男兄弟ばかりだった。母の下に弟が1~2人いたようだが若い内に病死したようだ。

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姉の下に男兄弟が二人いて「長男の兄は昭和の初期に東京の大学を出た秀才だった」と母が何かにつけ自慢していた。付け加えて当時、祖父の事業(高電圧鉄塔建設業)が順調で、高岡市でも屈指の富裕であったことも自慢だった。

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打って変わって次男の兄は肉体派で、柔道のかなりの猛者だったようだ。この兄が中学生(五年制)の時には、地元では稽古相手に困るぐらの猛者だったらしい。そんなことから近在の警察道場に出稽古に行ったりしていた。

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母は「二人しかいない女の兄弟」で有ることから、兄弟から随分可愛がられたようだが、特にこの次男の兄が幼少の母を可愛がってくれたようだ。そのためか母は、生来甘ったれな性格だった。

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母は、三、四歳くらいの時に、父親を病死でなくしているが、母親が仕事をしている間この兄が、柔道の出稽古によく、幼い母を連れ歩いてくれたようだ。

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柔道にはケガが付きものなので、当時、柔道の有段者になると柔道整復術を心得ていたようだが、この兄は柔道整復師の資格と鍼灸治療の免許を持っていた。

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多分母は、同僚のケガを治している兄の姿を、何度か見ていて幼いマブタに、焼き付けていたと思う。

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2008年4月15日火曜日

戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。 母、九死に一生

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母はカゴを背負ったままプラットホームから線路に落ちたが、イクツカのラッキーが重なって軽傷ですんだ。

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ここからは、この事故の状況を見ていた駅員が母に話したことを、後に母が私達に話してくれた。

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母は軽くなったカゴを背負い、手さげカゴを片手にもう一方の片手に傘を持っていた。足を滑らせた瞬間、走り高跳びの選手のような体勢で両足が宙に跳ね上がったそうです。

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そして同時に「手さげカゴ」を持つ手が濡れていたせいか、カゴの重みで手から滑り落ちたそうです。ただ、傘はシッカリ持っていて、背負っていたカゴの程よい重みでカゴを背にして線路に落ちたそうです。

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その落ちたときの体勢は、背面跳びの選手そのものの体勢だったようです。そして背負ったカゴが衝撃を緩衝し、加えて傘がパラシュートの役割をしたようです。

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落ち方は派手だったが、その割に母のケガは軽傷ですんだ。母のケガは落下した時の衝撃で右足を線路に強打したが、骨折はなく「打撲でだけですんだのです。

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加えて、前の電車が出たばかりで次の電車がくるまでに、かなりの時間的余裕があったようです。また、駅員が近くにいたラッキーが重なり、すぐに救助されて野方駅の近くの病院に担ぎ込まれたそうです。

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父はその日の夕方帰宅した。私「カーちゃんは?」。
父「うん。バーちゃんの風邪が、カーちゃんにウツッタみたいだ。みんなにウツスと困るから一週間ぐらい帰らないよ」。
私「うん。分かった」父の明るい表情に、私は何の疑問も持たなかった。

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母は、この時の話をするタビに、この事故の二年前に死んだ(三回忌の)祖母の話をした。
母は、「富山のバーちゃん(母の生母)に、助けられた」と私達に話した。

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そして母は、このケガが切っ掛けで「かつぎ屋さん」ビジネスに疑問をを持ち始めた。その後母は多少の雨の日でも「かつぎ屋さん」ビジネスに出かけていった。

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そんな日の母の荷物は、いつもの半分ぐらいにしていた。
そしてお客から得た情報をもとに、上手なマッサージ師を探し出して、足の治療を受けながらそのマッサージ師の治療技能を吟味する日々が続いた。

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戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。母、線路に転落

母がケガをしたその日は、午後から小雨が降っていた。母は野方駅商店街で「かつぎ屋さん」ビジネスの大半を終えていた。


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「かつぎ屋さん」は重い商品をなるべく軽くするために、その日の第一件目の「客宅」で商品の大半を販売してしまう。

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母が「第一件目で荷下ろしする家」は何件か有ったが、いずれも客と言うよりファミリー的存在だった。そこで荷下ろしすると、「その家」を中心に小分けにした商品を周辺のお客に届けたり、周辺の客に「その家」まで来て貰ったりしていた。

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そこで、商売が終わると母は、少し遅い食事を自分が持ってきた総菜を提供して、「その家人」や商品を買いに来た客などと一緒に昼食を摂っていた。

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昼食を摂っているときの母は、もうただの主婦の顔になっていた。話す内容は、子供の学校のこと、商店街の出来事、その家のご主人の仕事のこと、嫁がいないか、女中がいないか、物価が高いの安にのなどだ。

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母は、子供の私にでも「少しお節介ではないか」と思うぐらい、頼まれ事を安受けする単純な女だった。その単純さがお客を引きつけたようにも思う。また、困っているヒトを黙って見過ごしにできない性格だった。

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その日も野方で商売を終えたとき、商品の大半を売り切って「かつぎ屋さんのカゴ」には一斗(15Kg)の米、野菜、総菜、タマゴなどが少し残っていた。

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残りの商品は鷺宮(野方の下り、隣駅)で売って、帰りに叔母の家によるつもりだったようだ。当時、野方駅のプラットホームに屋根はまだなかった。
雨に濡れていたホームを歩いていた母が一瞬脚を滑らせてカゴを背負ったまま線路上に落下した。

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2008年4月12日土曜日

戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。 母、線路に転落

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昭和25年(B/C1945年)の朝鮮戦争は日本の経済事情に大きく貢献した。いわゆる戦争需要と言う事だが、アメリカ軍の統治下にあった日本は、アメリカ軍の物資の調達により、戦後の疲弊した日本経済が復興の兆しを見せた。

Great Mother日本政府はアメリカ軍の物資の輸送に、旧日本兵を徴兵した。当然のことだがアメリカ軍は、戦略情報漏洩を防ぐためやにも、雇用する旧日本兵にソ連の捕虜経験者を避けた。
ここでもレットパージ(共産党排斥)から、一番無難な南方派遣兵(東南アジア派遣兵)を中心に雇用した。

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南方派遣兵はアメリカ軍と最も激しく交戦した旧日本兵だ。それがアメリカ軍の傘下になるのだから、アメリカ兵と旧日本兵の間で、小競り合いが絶えなかった事を、後に父から聞かされた。

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朝鮮戦争当初にアメリカ本国はマッカーサー元帥に充分な派兵を承認しなかったため、やむなく旧日本兵を雇用するわけだが、戦火の中での荷役作業は戦争経験の旧日本兵を選択する以外なかったようだ。

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父も徴兵にとられたが、母は障害者の姉と3才の私と乳飲み子の妹をかかえ、生家の高岡(富山県)からたった一軒の親戚(叔父の関連)を頼って、茨城に移り住んだばかりだった。

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茨城に来てから母は「かつぎ屋さん」、マッサージ師、生保外務員と三つの仕事に就いた。そして、マッサージ師の仕事と「かつぎ屋さん」は同時並行だったが、有ることが切っ掛けになった。

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その頃我が家では、父が病気で家庭療養中で、母の「かつぎ屋さん」で生計を立てていた。そんなある日の昼下がり一通の電報が父を震撼さた。それは、母が野方駅のホームから転落して入院したと言う電報であった。

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その時私は、小学校二年生ぐらいだった。電報は私が登校中の事だったが、帰宅して父の様子にただならぬ、予感を感じた。

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父は、戦場で死線をさまよっただけに、子供の私から見ても度胸の据わった男だった。当時、我が家の近所には力自慢や乱暴者が沢山いたが、父がヒトニラミすると誰も、父に逆らう者はいなかった。
そんな父がいつもとは違う懸命に平静を装うが「なにか落ち着かない、顔が青ざめている」

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当時は、電話など警察か村役場でもなければない時代だから、通信手段はモッパラ電報だった。電報だけでは母の様子が皆目掴めないから、父は不安だけが募ったのだろう。

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父は夕方になって私達に言った「カーちゃん。今日は叔母さんの家に泊まるから帰らないよ」
私「・・・・・」
父「父ちゃんも明日、東京に行くよ。バーちゃんがグアイ悪いらしいから」。私「うん。分かった」

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翌日、父は朝一番のバスで東京に出かけた。

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2008年4月10日木曜日

20)かつぎ屋さんの戦場は鉄道だったが・・・・

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松川事件
昭和24年8月8日(B/C1949年)東芝松川工場の人員整理わくを発表した。そのため松川工場の労働組合は17日夜明けから24時間ストラキを予定していた。

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ストライキ当日の17日午前3時09分、青森発上野行きの列車が福島県松川駅付近カーブで機関車と客車3両が脱線し、機関士と機関士助手2名と乗客630人の内4人が負傷した。

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事故原因はレールの継ぎ目板がはがされて、枕木を固定する杭釘が大量に抜かれていた。福島検察は複数の人間による計画的犯行と断定した。

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昭和25年(B/C1950年)福島地裁第一審裁判では、国鉄労働組合福島支部組合員と東芝松川工場の労働組合の共同謀議で首謀者国鉄労組から10名、東芝労組がらの10名を有罪とした。

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その後の上告で、両労組の共同謀議がなかったことを証明するメモを検察が隠し持っていることが判明して、起訴された20名は無罪となった。

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昭和25年は朝鮮戦争(B/C1950~1953年)は勃発した年でもあった。大戦中、朝鮮半島は日本軍が統治していたが、朝鮮の主要な政治家は海外亡命していた。終戦後北朝鮮の指導者になる金日成はソ連に、韓国の指導者になる李ショウバンはアメリカに留学していた。
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朝鮮戦争は、ソ連、中国が擁護する金日成とアメリカが擁護する李ショウバンが、朝鮮半島の統治をめぐる戦争だが、アメリカにとって日本はこの戦争の最前線であって、重要な地理的拠点であった。

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しかし、当時の日本には在日朝鮮人が住み、ソ連の捕虜時代に共産思想で洗脳された日本人が労働組合の中枢にいて、アメリカが油断すれば東アジアが共産圏一色になる危険性があった。最悪のシナリオではアジアの大半が、共産圏になることも想定できた。

Great MotherそのようなことからGHQは、特に国鉄労組、日教組、逓信労組、地方自事体労組など行政機関、または大手企業の労組をターゲットとした、レットパージ(赤狩り)政策を当時の政府と画策した。

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いずれにしても当時の国内の不安定要素が、当時の日本の流通機構の中枢であった鉄道に集中して、大きな事故や事件の大舞台が鉄道であった。従って鉄道公安官の警察権も絶大であった。

Great Mother
このような社会情勢で鉄道を利用して東京にでたて行く、当時の「かつぎ屋さん」ビジネスは、常に過酷な心身のストレスを受けていた。

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2008年4月9日水曜日

かつぎ屋さんの戦場は鉄道だったが・・・・

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これら昭和20年代(B/C1945~1954年)の鉄道事故の中にある下山事件、三鷹事件、松川事件と昭和37年にあった三河島事件は、昭和史を語る場合に欠かせない事件でもあった。

Great Mother下山事件
昭和24年(B/C1949年)7月6日初代国鉄総裁下山定則が常磐線綾瀬駅で轢死体で発見された。同総裁は7月5日三越本店(日本橋)に買い物に行ったまま、行方不明になっていた。

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1949年、GHQ(米国占領軍)と当時の政府(吉田内閣)が、行政機関内に就労する共産党員またはその同調者100万人の首切りを密かに計画していた。こりをGHQはレットパージプランと言っていた。

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国鉄労働組合の中心的存在は共産党員だったが、下山総裁は行方不明になった7月5日に国鉄当局は、組合員95,000人の人員整理案を発表する日だった。

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下山事件は自殺、他殺両面から捜査されたが結局、時効成立そるまで、その首謀者を逮捕することができなかった。

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三鷹事件
昭和49年7月15日国鉄中央線三鷹駅の車庫から無人電車が走り出し、駅改札と階段をぶち抜き、駅前交番を全壊して、さらに民家に突入6人の市民が死亡、重軽傷20余名という事件だった。

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翌16日吉田首相は「下山事件同様に共産主義者の扇動による事件」と声明を発表した。
17日国鉄労働組合の共産党員20名近くが逮捕された。
21日国鉄組合員94,000人が国家再建の為という名の下で解雇された。

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当時の検察は、9名の共産党員と共産党員ではない竹内景助のが事件の首謀者として裁判になった。
GHQは最高裁判所による介入を扇動したが、東京地裁裁判長鈴木忠吾は「司法介入」として拒否した。

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共産党員の9名はアリバイが成立して無罪となった。竹内景助は最後まで無罪を主張していたが獄中死した。

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2008年4月8日火曜日

母と二人で鉄道公安官に勝った。私の「泣き」を褒める祖母

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その日、母の「かつぎ屋さん」は何時もより、かなり早く終わった。
祖母が住む、叔母(父の異父兄弟)の家は沼袋だが、沼袋駅と野方駅(高田の馬場始発・・・西武池袋線)のほぼ中間で野方駅から1.5Km~2Kmほど有る。

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叔母は、私より一歳年下の女の子と、年子の男の子がいた、私は叔母の家に行くとこの従兄弟達と会えるのが楽しみだった。

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叔母の家は長屋の一室で、我が家と同じ6畳一間であった。そこに叔父と祖母が加わって5人暮らしだった。
祖母は、小柄で若いときは可愛い女をホウフツさせる人だった。
しかし、その日、祖母は病気ではなかった。

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母は、お土産のタマゴとザッコ(小さな川魚)の佃煮を祖母に渡しながら、今日の公安の一斉監査の話を始めた。

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母「昨日、東京駅で一斉があったと聞いたから、今日はもしかしたら上野か日暮里と思ったら、やはり張り込んでいたの」
祖母「よく、没収されなかったね」

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母「この子が必死で『カーちゃん連れて行かないで!』って泣きつくものだから、公安も根負けしたみたい。
それに、荷物もいつもの半分以下だったし、話の分かる公安でタスカッター」
叔母「へー、タカシ君偉かったネー」

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母「公安に『おい、隠れてもダメダヨ』って言われたときには、商品没収されたら、明日の仕入れはどうしよ・・・・と。目の前が真っ暗になったもの」

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鉄道公安は、現在のJRが国鉄と呼ばれていた時代の独立行政機関だが、1947年に設立され、当時の警察と同格の司法警察権を有していた。

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当時は今のように高速道路網は勿論、国道も未整備だったため、有効な移動手段は鉄道だけだった。ちなみに
現在、常磐線と平行する6号国道はなく、江戸時代からの曲がりくねった水戸街道があっただけだ。当然、道路事情も悪く今の2倍の時間を要したと思う。

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当時の政府は、先ず鉄道を整備を第一優先にした。従って昭和20年(B・C1945~1955年)代は鉄道事故の件数が極めて多い時代でもあった。

Nostalgia Travel昭和元年~19年(B・C1925~1944年)の鉄道事故件数は12件だが、昭和20年代の10年間で13件の鉄道事故が記録されている。

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2008年4月7日月曜日

母と元海軍兵の鉄道公安官が敬礼する

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年配の公安は、母が山手線に乗る途中で、また別の公安に呼び止められないように、母に同行してくれたようだ。新宿行きの電車がホームに近づいてくる。

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年配の公安「樋口さん?」。母「エッ、はい」。

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公安は「かつぎ屋さんの認定書」で確認した、名字で母を呼んだ。「私、公安二課の木村と言います。何か困ったことが合ったら、担当公安官に私の名前を言って、連絡下さい」
母「・・・・ありがとう存じます。」

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電車の先頭が、私達がいるホームの前をブレーキを掛けながら通過して行く。
公安が、私の頭を撫でながら「坊や、なかなかいい根性しているね。親孝行するんだよ」

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母「木村さん。これ気持ちです。受け取って下さい」
母はタマゴを2包み(20個)と大福3包みを「手さげカゴ」から出した。

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公安「いや・・・。小生はそんなつもりで・・・」
母「分かります。でもこれは、私のささやかな気持ちですから、受け取って下さい。お願いします。」

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電車のドアが開く。母「電車が出てしまいます。お願いします。」母の顔が真剣だった。
公安「お気持ちだけで結構なのですが・・・・」

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母「今朝取れたてのタマゴと、作りたての大福です。お昼に皆さんで召し上がって下さい。お願いします。」
発車の笛が鳴る。
公安「分かりました。ありがたく頂戴します」

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母と私は電車に乗る。ドアが閉まる。年配の公安が私達に敬礼をする。私は無邪気に敬礼を真似た。母は頭を下げてオジギをする。

Great Mother
電車が走り出して、年配の公安の姿が見えなくなる。母が頭を上げた目には涙が溢れていた。

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その日、母は野方駅の商店街の建築屋の家で一斗の米を売った。そして、公安の一斉監査で注文通りに、米を運べなかったことを詫びた。その後、商店街の何件かの、お客さんの家を周りながら詫びて歩いた。

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2008年4月6日日曜日

母と元海軍兵の鉄道公安官との会話

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年配の公安は母と私の歩調に合わせ歩きながら話し始めた。「ご主人の帰属艦は戦艦ですか?」
母「はい。戦艦『比叡』でした」

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公安「そう。それじゃミッドウエイ海戦で沈没だったね」。母「いいえ、ガダルカナル島沖です」
公安「あ~そうだったね」。母「ダンナも海軍ですか?」

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公安「エエ、横須賀基地の守備隊です」。母「主人も帰還後は、基地勤務でした」
公安「どこです?」。母「霞ヶ浦です」

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公安「エッ。それじゃ司令部ですか?」。母「はい。通信部にいました」
公安「空襲、激しかったでしょう?」。急に公安の言葉使いが丁寧になる。

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母「ええ~。もう毎日のようにありました。私達は官舎に住んでいましたが、主人は基地勤務に出ったきり、いつ帰れるか分からない状態が何日も続きましたから、毎日が生きた心地がしませんでした」

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公安「そうでしょう。横須賀も激しかったですが、司令部は凄かったと聞いていました」
母「この子の上に、19年8月生まれの姉がいますが、その子をオンブしながら終戦までのほぼ1年は、防空壕に住んでいたようなものでした。そのため、上の子は風邪をコジラセたのが元で、脳性小児麻痺になってしまいました」

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前方から、さっきの公安ではない、若い公安が走ってくる。立ち止まって年配の公安に敬礼して、また走り出す。年配の公安は母と話しながら敬礼を返す。
年配の公安「お嬢さん、小児麻痺ですか?」。母「はい」

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公安「お嬢さん。今もご健在なんですか」。母「はい。この子の妹と二人で、留守番しています」
公安「それじゃ。障害は軽かったですね」。母「いいえ障害一級で、重度障害です」

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公安「エッ! それで、留守番ですか?」。母「近所の友達が、良くしてくれて、面倒見てくれています」
公安「そうですか。ご近所に恵まれて良かったですね」

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山手線のホームについて10分位すると新宿方面行きの電車が来た。その間、何組かの公安とすれ違ったが、
その全員が、年配の公安に敬礼するとき、立ち止まって敬礼していた。それを見て私は「へー。このオジさん、偉いんだ。」と思った。

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2008年4月4日金曜日

母と鉄道公安官のバトル

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年配の公安が「オバサン、米持っているね。」。
母「持ってます。でもこれは、売り物ではないんです。姑のお見舞いに、持って行くんです。」

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公安「お母さん、病気なの?」。
母「はい、中野に住んでますが、三度、三度食べれば元気になると思うです。母が、この子のにも逢いたいと言うので二人で、お見舞いに行くんです」

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公安「あんたのお母さん」。母「いいえ、主人のです」
公安「ご主人の。ご主人戦死したの?」。母「いいえ帰還しましたが、戦傷で元の仕事に復帰できなくて、母を妹夫婦に見て貰っているんです」

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公安「ご主人、海軍? 陸軍?」。
母「海軍です。所属艦が沈没した時負傷しました。」
公安「海軍。私も海軍だが・・・・。奥さん、くに(郷里)は茨城でも千葉でもないね」
年配の公安は母の言葉に、茨城県や千葉県の訛りがないことに気づいたようだ。
母「ハイ。富山です。主人は浅草生まれですが親戚を頼って、今は食料事情の良い、茨城に住んでいます」

Nostalgia Travel
公安「米、何斗持っての?」。母「一斗(15Kg)です」。公安「仕事なんで一応、見せて貰おうか!」。
 *一斗(15Kg)x4=一俵(60kg)

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「竹製の四角いカゴ」は厚めの木綿生地の大きな風呂敷に覆われている。その風呂敷はカゴ2つ分位包めるほどに大きい。広げれば二畳(1.8mX1.8m)位有るだろう。
この風呂敷はカゴの上に、更に荷物を積み上げた時、全体を一体化して荷崩れを防ぐ効果がある。母はそのカゴの荷物を解き始めた。

Nostalgia Travel
今日の母のカゴには、上からトマト、なす、サツマイモなど野菜類、一番下に米が入っていた。しかし、いつもの半分以下だ。

Great Mother
米は二斗まで入る「厚手の専用茶封筒」に入っている。一斗ずつ入れた方がカゴに収まりやすいし、販売し易いロットであった。

Nostalgia Travel
手さげカゴも、いつもは二つで両方の「手さげカゴ」に、タマゴが200個くらい入っているが、今日は一つだけだ。今日は、タマゴが50個くらいと大福やザッコ(小さな川魚)の佃煮が何パックが入っているだけだった。当時、これらの食材は、東京では簡単に手に入らない貴重な食材だった。
母は米はカゴから出さずに、年配の公安に傾けて見せた。

Great Mother
公安はカゴを覗きながら「奥さん。鑑札は持っている?」。母「ハイ」。
母は、首からさげたヒモの先をたぐり、胸の合わせから定期券を出し裏返した。それを公安に差し出し、「かつぎ屋さん」の認定証を見せた。

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公安「奥さん。事情がお有りようなので、今日は『注意』で済ませますが、次回は全商品没収ですよ」
公安は、いつの間にか母を「オバサン」ではなく「奥さん」と呼んでいた。
母「ハイ分かりました。ありがとう御座います」

Great Mother
公安「中野じゃ、山手線ですね。一緒に行きましょう」
母「えっ。アッ、ハイ。ありがとうございます。」


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2008年4月3日木曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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母にとって、私は4番目にやっと生まれた待望の長男だった。母の初産は女児で生まれて間もなく死んだ。第二子も年子で女児だが、これも生まれて間もなく死んだ。

Great Mother
三女は姉だが、物資の極端に不足している終戦の一年前に生まれた。一歳の姉が、風邪をこじらせた時、医者は処方する薬がなかった。高熱が何日も続いて、手をこまねいている内に、脳性小児麻痺になった。そして、4人目が待望の男子の私だった。

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当時の日本には「男子の産めない嫁は一人前ではない」そんな風潮がまだあった。「男子は将来、嫁を『めとり』家系を継続してゆく」江戸時代の武家の名残が、まだ色濃く残っていた。

Great Mother
最近の話だが、3年ほど前に、雅子妃に男子が生まれない事から、法律を改正して女性天皇家継承が可能にしようと真剣に討議されたことがあった。当時は庶民意識の中にも、そんな意識が根強くあった。

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父が船乗りで不在な事が多かったことから、母は私が3~4才の頃から親戚の葬儀に、父の代行と言うことで私を参列させていた。

Great Mother
その頻度は、私が成長するにつれ多くなった。質屋や小口金融に行くときなど、田舎道を往復10kmも、歩くことになるが、冬など帰り道は暗くなる「男の子が側にいると心強い」と言って、私を同行させた。

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そんな母の心理を受け止めた私は、物心付いたときに「いずれ家長になる重責」の刷り込みが完成されていた。
だから「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」と、母に言われたとき5~6才だった私だが「どうにかしなけきゃ」と一瞬にして反応していた。

Great Mother
年配の公安が、若い公安に言う「ここは俺がヤルから、お前は向こうを手伝え」と山手線の方を指さす。若い公安「ハイ、分かりました」と敬礼して走り出す。


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2008年4月2日水曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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母は「公安」と言った。私は、鉄道公安を見たことがなかった。バスの中や、電車の中や「かつぎ屋さん」専用市場で母達「かつぎ屋さん」の会話に何度も聞く言葉だから「かつぎ屋さん」の天敵だと言うことは、子供ながらに分かっていた。

Great Mother
階段の下で隠れている母は「ハット・・・」と慌てて、頭の手ぬぐいを取った。当時「かつぎ屋さん」の出で立ちは戦時中の女性の服装そのものだった。

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違うのは、防災ズキンの代わりに手ぬぐいを「姉さんかぶり」にして、クビに汗ふき用の手ぬぐいを巻いていた。そして服装だが、上は「カスリの合わせ」に、下は「カスリのモンペ」だった。足もとは地下タビだ。

Great Mother
その姿は正しく、戦時下の女の戦闘服だ。男達が負けた戦争の尻ぬぐいをさせられている女が、今その男達に追い詰められている。

Notalgia Travel
母が手ぬぐいを、頭から取るのが少し遅かったようだ。二人の公安が現れて「オバサン」と声を掛けた。
一人はかなり若かった。年配の公安が大きな声で「オイ!オバサン隠れてもダメだよ」と言う。幼い私には年配の公安の年齢は、分からない。しかし父より、かなり若いのは分かった。

Great Mother警棒を手に持ち、拳銃を腰にさげている。鉄道公安を初めて見る私は一瞬「お巡りさんだ」と思う。我が家には普段、父がいないので私達が聞き分けがないと、母はよく「言うこと聞かないと、お巡りさんに連れて行って貰うよ」と言っていた。

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「でも、カーちゃんは、何も悪いことしていない。カーちゃんを助けなきゃ!」と思った瞬間、私は「カーちゃんを連れて行かないで。連れて行かないで・・・・。」と泣きながらワメイテていた。

Great Mother
私は、ただ必死だった。屈強な大人を相手に私ができることは、泣きワメク以外になった。近くを通る乗降客が一斉に私達を見る。

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年配の公安が「分かった。分かった。分かったから坊や。カーちゃんは何処へも連れて行かないから。もう泣くのはやめな。」

Great Mothre
私は、興奮状態だったが「連れて行かない」の言葉に敏感に反応した。泣きながら「ホントウとかな?」と確認するように、年配の公安の目をのぞき込んだ。その目がさっきよりも優くなっていた。

Great Mother
私は泣くのをやめたが「泣きシャックリ」が止まらない。

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2008年4月1日火曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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カゴの荷物は頭上から30センチ以上ウズ高く積み上げられている。この荷物を背負って、一番大変なのは階段を降りるときだ。

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体力がない、またはバランス感覚に自信のない「かつぎ屋さん」が、階段を下りるときは、先ず「手さげカゴ」を仲間に持って貰い、その仲間にカゴに縛り付けたヒモを、後ろに引っ張って貰いながら降りる。
「かつぎ屋さん」が階段でケガをする大半は、降りるときだった。

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先に降りた者はホームのベンチにカゴを乗せてから、今度は助けて貰った仲間を、助けてる。
階段を下りることに自信のない「かつぎ屋さん」はたいていの場合、到着駅で一人になると身動きがとれなくなる。従って、最寄り駅に助っ人を呼んでいるようだった。

Great Mother
日暮里駅で、ほぼ全員の「かつぎ屋さん」が階段を登り終えても、母は階段を登ろうとしなかった。いつもの半分ほどしかない荷物のカゴを下ろさずに、周りを見渡しながらジットして動かない。母の表情が何かキゲンが悪そうに見える。私は「自分が原因かとな~」と少し不安になった。

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しかし、母は一円札を5枚を出すと私に渡して「好きなもの買ってきな!」と売店(今のキオスク)を指さした。母のキゲンが悪いのは、自分のせいじゃない事が分かったのと、意外なお小遣いに私は嬉しかった。

Great Mother
当時、我が家では、お小遣いなど滅多にもらえなかった。貰えても、私と姉と妹の三人で5円のお小遣いで買った物を分け合った。

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飴玉の周りにザラメをまぶした、小さな飴玉が3個買えた。甘い物があまりない時代だから、嬉しくて飴を母に見せると、一瞬いつもの母の顔に戻って「食べな」と言うが、すぐに緊張した顔に戻った。母は、頻繁に周りを見渡しながら、時折山手線の方向に視線をやる。なにかを待っているように見える。

Great Mother
母がその場所に座り込んで15分くらいすると、遠くから笛の声が連発で数回聞こえた。母が「ヤッパリ」と言う。また連発で笛が聞こえる、山手線の方向だが電車は止まっていないから、発車の合図とは違う事は私にも分かった。

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「アッ」母が一瞬小さな声を上げた。「タカシ。こっち」と私の手を引いた。私は、母に引かれる、まま階段の下の空間の角に置いてあるゴミ箱の影に、かがんだ。

Great Mother母の怯える顔を見て、私も怯えた。母「公安だ。タカシ、カーちゃんが捕まったら助けるんだよ!」。私は声にならない声で「うん」とうなずく。

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2008年3月31日月曜日

かつぎ屋さんは乗車券二倍払って専用電車で行く

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とにかく、母と私を乗せた取手駅始発の「かつぎ屋さん」専用電車は出発した。

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今の取手始発、常磐電車が「快速」になったのは30年ほど前だ。従って、当時の取手始発、常磐電車は今の千代田線と同じで各駅停車であった。今なら取手ー上野の所要時間は50分くらいだが、当時は1時間30分位要したと思う。

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当時天王台駅は、まだなかった。取手の次は我孫子駅になるが、我孫子駅に着くと、この駅を起点にした「かつぎ屋さん」が乗車する。

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柏、松戸駅など、それぞれの主要駅に付く度に、新たな「かつぎ屋さん」が乗り込み、乗客席に乗せきれないカゴが、古新聞を引いた床に並べられる。松戸駅を出る頃に専用車両は、「かつぎ屋さん」で満員になる。

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そして新宿方面に行く者は、日暮里駅で山手線に乗り換えだが、それは今と同じだ。この日暮里で7割近い「かつぎ屋さん」が山手線に乗り換える。高田の馬場で西武線に乗り変える、母と私も日暮里駅で降りる。

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日暮里の一つ前の駅は三河島駅だが、三河島をを出ると、専用電車の「かつぎ屋さん」は、大半が降車の準備に入る。先ず座席にカゴを置いたの者が、仲間の助けを借りてカゴをかつぐ。次にカゴを床に置いた者が、仲間の助けを借りて、自分のカゴを座席に乗せ、カゴをかつぐ。

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降車駅に着いたときには全員が速やかに下車できる体勢になっている。もちろん最後尾車両だから車掌は「かつぎ屋さん」全員が、安全に降車するのを見届けてから、発車の笛を吹く。そう、当時は発車の合図は笛だった。

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当時と言えども日暮里駅までくると、さすがに大勢のサラリーマンが下車する。今のように階段を登るエスカレーターやエレベーターがない時代だから、上客は一斉に階段に登るのだが「かつぎ屋さん」の車両は最後尾だら、当然階段を上るのは最後になる。

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「かつぎ屋さん」が頭上高く積み上げられたカゴを背負い、両手で15Kg程度の「手さげカゴ」を持って歩く姿は、一時代前のロボットのように身体をキシマセながら「ゆっくり歩く」のによく似ている。

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階段を登る時は、足下に注意深くなる。重量の移動を充分に確認しながらの歩行になるから、更にゆっくりになる。そして、前の者がコケタ時、巻き添えを食わないように4~5段の間隔を開けて、次の者が登る。

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2008年3月29日土曜日

母「かつぎ屋さんの商圏」 10

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母の商圏は西武線の(「高田の馬場」発、「所沢方面」)沿線に有った。当時、父の妹夫婦が沼袋駅周辺に住んでいた関係からと思うが、沼袋、野方、鷺宮駅に集中していた。

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特に上客は野方、鷺宮駅に集中していた。野方駅商店街には、商店街の有職者の奥さんが、母と同じ富山県出身であったことから野方商店街には、良いお得意様が沢山いた。

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両親に先立たれた「我が家」大家」の長男は中学一年から、長女は小学校4年から私達と一緒に、母に育てられた。

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かなり先になるが、その長女「典子(仮名)姉さん」が就職難で困っている時、母のツテにより、この商店街の建築会社の社長宅に、女中に入る事になる。

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鷺宮には、母のお客では最大の上客がいた。母は農家のカミサンの「かつぎ屋さん」とは違っていた。夫はレッキとした江戸っ子で、結婚当初、墨田区に住んでいた事もあり、東京や東京人に物怖じしなかった。加えて比較的、商才が有ったように思う。

Great Motherそんな母は金回りの良さそうな家に、今で言う飛び込み営業を掛けて客層を上げる努力をしていた。それが野方の商店街であり鷺宮の佐藤さん(仮名)だった。

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この佐藤さんのご主人は、戦時中父の部下だった。佐藤さんについて、父はほとんど印象にない部下の一人だったようだ。
軍隊には、特有の「いじめ」が有ったが、父はそれを「いい加減に勘弁してやれ」と止めることが、たびたび有ったそうだ。そんな父に佐藤さんは、何度か救われた事があって、父を良く覚えていた。

Great Mother
母は佐藤さん宅に飛び込み営業に入った時、終戦直後の事だから当然のようにお互いが、お互いの軍歴を話す。その中で佐藤さんは、偶然母が元上官の女房であることを知る事になるが、以来一族上げて母の最上得意になった。

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佐藤さんは当時、鷺宮の大地主で「住まいの屋敷」だけでも1000坪(3,300へーべ)くらい有り、かなりの資産家でもあり、他のお客とは格段の差があった。
従って、母のお客の中でも最上得意だった。母も父の元部下であったことから、商品を厳選して販売していたようだ。

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私も何度か、母に連れて行かれたが、別荘のように緑豊かな屋敷内に親族の家が3軒ほど建っていた。私が佐藤さん宅に、最後に行ったのは22~23才の時だった。
その頃には、母はヒザを痛め(かつぎ屋さんの大半は若くしてヒザの軟骨がすり減って歩行障害になる)て、既に「かつぎ屋さん」を廃業して、生命保険の外務員をしていた。

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しかしそんな母が、「タカシ、佐藤さんからコシヒカリ2俵(120Kg)注文が来てるけど乗用車で運んでくれんかい」と頼まれたことが2~3度あった。従って佐藤さんは、20年来の母の上得意だった事になる。

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その鷺宮駅に行くには、今なら取手駅から1時間20分だが、当時は接続の悪さも有って2時間以上かかったように思う。

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2008年3月28日金曜日

駅前を活気つけた「かつぎ屋さん専用市場」

Nostalgia Travel専用市場には、駅近くの業者などが入り乱れて総勢50人ぐらいの人だかりになる。サバイバル時代から少し落ち着きを取りも出し掛けた昭和27~28年(B・C1952~1953年)当時、駅に急ぐサラリーマンの姿もあったが、朝の駅周辺は「かつぎ屋さん」のエレルギィーが活気づけていた。

Great Mother30分から1時間程度、専用市場の長いすの上で荷作りの準備をする者、オニギリを「ほおばり」ながら朝食を済ませる者、近くの食堂に急ぐ者など様々だが、この長いすはカゴを背負うには「ちょうど良い高さ」になっている。

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食堂で朝食を済ませる者は、長いすに荷作りの終えたカゴを置いたままにして食事に行くが、その間は男の見張り役が二人ほどいるだけで市場には一瞬静寂が訪れる。

Great Mother
この当時になると「かつぎ屋さん」ビジネスも有る程度認知され始めたと思える(もちろん統制品の米類を除いての事だ)。この専用市場の敷地は国鉄(今のJR)の所有地であったことは当然であったし、国鉄は乗車券を2人分取ることで(往路のみ)「かつぎ屋さん」専用電車を出していた。

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専用電車は朝だけだ。推測だが、その時間帯は午前8~10時の間で、1時間に一本程度の「かつぎ屋さん」専用電車があったようだ。

Great Mother
専用電車といっても、最後尾に「かつぎ屋さん」専用車両が一両付けられていた列車だ。従って「かつぎ屋さん」の朝の作業の全ては、専用列車の出発時間に合わせたものだった。

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専用車両の中は「かつぎ屋さん」だけだが、座席に座っている者は誰もいない。その代わり座席には荷作りされたカゴがズラット並んでいた。座席に置かれたカゴの高さは、身長の個人差はあるが肩ぐらいの高さである。目的駅についてこのカゴをかつぐには打って付けだった。

Great Mother
そして自分のカゴが落ちないように、それぞれの持ち主が、窓の方を向いてカゴを抑えたり、背中で支えたりしている。

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ここは「かつぎ屋さん」専用空間だから商品の善し悪しや、商品の融通をし合ったり、客種のことを話す者や、食事をする者、タバコを吸う者など「自由闊達」で賑やかだ。

Great Mother私は、この時並んでいるカゴを見比べて母の荷物が、いつもの半分くらいの大きさである事に気がついた。しかし、そのことを不思議に思うにはまだ幼かった。

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2008年3月27日木曜日

大荷物を背負う「かつぎ屋さん」はロボットの様に歩く。

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満員のバスが国鉄(今のJR)取手駅に着いたのは午前7時頃だった。そして、「かつぎ屋さん」の面々は駅前の専用市場に集結する。

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専用市場と言っても、使用済みの線路の枕木で作った、背もたれのない長椅子が10~15コ位、並べられただけの150坪程度の空き地だ。露天なので当然、風雨をしのぐすべがない。

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雨の日「かつぎ屋さん」は、特別の事がない限り、休業となるのは、この市場が露天である事も原因の一つだ。とにかくこの市場に着いた母達「かつぎ屋さん」は、自分の商品を仲間に売ったり、買ったりする。

Great Motherサバイバル時代も過渡期に入ると、「かつぎ屋さん」から、オーダを受けていた業者が、自転車やバイクなどで運び込む者もいた。野菜、米、モチ、モチ米、タマゴ、鶏肉、河魚の佃煮、大福などなど食料品が取引の対象だ。

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駅の近くにある「千代屋」と言う八百屋は、「かつぎ屋さん」専用業者で、いつも盛況だった。その八百屋は「かつぎ屋さん」が駅に着始める午前6時頃から正午まで、「かつぎ屋さん」が帰り始める午後4時から7時までが営業時間だった。

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「かつぎ屋さん」のカゴはガッシリとした竹製で、タテ、ヨコ45センチで高さが80センチぐらいだが、その荷作りが巧みでないと途中で荷崩れして、大けがをする事になる。

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当然、重い米や、上からの加重に耐えられる物などは、カゴの一番下になる。そして野菜は一番上だが、途中で鮮度が落ちないように、ぬれた古新聞や風呂敷でクルンダリする。新聞が濡れすぎていると、下の米の鮮度に影響するから、そこもノウハウだ。

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タマゴなどは10個ずつ古新聞でクルンデ、篠竹製の「手さげカゴ」に入れて運ぶ。この手さげカゴはタマゴなら100個ぐらいはいる大きさだ。

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この身体のバランスを考えて両手に、同じ重さ(7~8Kgx2)の「手さげカゴ」を持つ、これも重要なノウハウの一つだ。
その総重量は目測だが当時の母の体重(55Kg前後)は軽くオーバーすることは間違いない。

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荷物が満載になった「かつぎ屋さん」の歩く姿は、頭上高く積まれたカゴを前かがみで背負い、両手に「手さげカゴ」をもってノシノシとロボットのように歩く。
この姿で、息を切らしながら階段を上る母の姿は、終生脳裏を離れることはない。

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当時、取手駅を起点にしている母のような「かつぎ屋さん」は、隆盛の時で200人ぐらいいたのではないかと思う。その8~9割はオバサン部隊だ。

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2008年3月26日水曜日

かつぎ屋さんはヤミ商人?

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弟が生まれる前(BC1955年)は、終戦後のサバイバル時代だが、この当時は「かつぎ屋さん」ビジネスで最も、需要が有ったのは主食の米だった。しかし、米の販売は厳しい統制下にあった。

Great Mother母達「かつぎ屋さん」は、警察官や鉄道公安官の査察で米を運んでいることが分かれば、米以外の全商品も没収された。母達が米の販売をすると事は「ヤミ米」をあつう事になる。


Great Motherかつぎ屋さんは、統制商品以外の生鮮食品などを販売できる登録証があった。しかし、米を運んでいる事が分かれば、その登録証さえ没収さっれる事もあった。それは、死活問題たった。

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母は、かつぎ屋さんを初めて間のなく私を連れて、行くようになった。
私が身体が小さい割に力があり、乗車券なしで、荷物運びの手伝いをさせられる事だけがその理由ではなかった。

Great Mother
「かつぎ屋さん」は電車、バス料金は二人分払うようだった。荷物が一人分の場所と重量があったからなのだろう。

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母と私がバスに乗ると、6~7名の「かつぎ屋さん」達は後部座席に陣取っていた。「かつぎ屋さん」は終点の当時の国鉄取手駅で降りるから、他の乗客の邪魔にならないようにの配慮でもあるが、そこは情報の交換場所でもある。

Great Mother
大柄の「かつぎ屋さん」が(ボスらしい)が母に昨日、どこの駅のどのホームで査察があったか、査察官が何人いたかなどの情報を大声で教える。
母も大声でなにやら聞き返す。バスが停留場で別の「かつぎ屋さん」を乗せる度に、その話が繰り返される。

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バスは舗装されていない砂利道を前後左右に激しく揺れながら走る。途中窓から野菜、タマゴなどが積み込まれたりする。

Great Mother
駅に着くまで、バスの中はとにかく賑やかだ。昨日の客とのヤリトリを話すもの、商品のブツブツ交換をするもの、冗談をいって笑うもの。
そして、駅に着く頃には7~8割は「かつぎ屋さん」の乗客でしめられている。

Great Motherバスは約15キロの道のりを、人家の軒先をカスメながら、狭い道を一時間くらい掛けて走る。

2008年3月25日火曜日

かつぎ屋さんの母は四人の子持ち。

Nostalgia Travelその日、母は一時間遅れのバスで「かつぎ屋さん」の仕事に出かけた。
弟は、母が仕事から帰るまでの間、山田のジー宅に預けられていた。私は妹(小学校一年)と障害者の姉に食事を与えて、学校へ急ぐ。

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母の帰宅は、早いときで午後7時、遅いと8時頃になる。母の帰宅が8時の時は私達子供だけで食事を済ませる。

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母は帰宅して、一人で食事をする。弟は、母のヒザの上でお乳をまさぐっている。妹より5才年下の弟は、母が帰るといつも、母のヒザとお乳を独占して一日の寂しさを紛らわしている。

Great Mother
私と妹は母のカゴの中に売れ残りの、お土産がないか、探すのが日課になっている。母は当時、あまり手に入らない大福を時折、私達のお土産に持ち帰って来ることがあった。

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大福は「白モチ」に「粒あん」か「こしあん」の大福で、その時によって「草餅の大福」の二種類の時もあった。兄弟全員が草餅大福が大好きだった。白か草餅かの争奪戦は当然、早いもの勝ちだった。

Great Mother
私は、長男の特権で草餅をよくゲットした。弟は泣けばいつでも、何でも好きな物をゲットしていた。私も弟とは8才も違う弟は可愛いくて、抵抗なく譲っていた。

Nostalgia Travel
従って、大抵は私と妹の争奪戦になる。可愛そうなのは障害者の姉だった。いつでも、何でも一番最後の残り物だった。

Great Mother
大人になってから、母が教えてくれたが姉の分は、別に隠して置いて私達に見つからないように、与えていたそうだ。それを聞いて私は幾分「罪の意識が癒された」

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子供の成長期は本能的に、食べ物に執着するようだ。もののない時代たった当時は、子供も大人でさえそうだった。

Great Mother
弟が生まれた昭和30年(B/C1955年)を境にして、日本の国情が少し明るさが見えてきた。そして、我が家でも父が職につき、母「かつぎ屋さん」との共稼ぎになって、我が家の家計に余裕を子供心にも感じられるようになった。

Nostalgia Travel
時代は緩やかに戦後社会から、脱却しようとしていた。その頃から母の「かつぎ屋さん」ビジネスも社会のニーズが少しずつ変わってきていた。

Great Mother
物さえ有れば何でも売れた時代から、産地直送の新鮮で美味しい食品を提供する、営業部隊に変貌しつつあった。

2008年3月24日月曜日

ミゾに落ちた荷車を、テコで簡単に上げるジー。

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私は、全速力で走って、山田のジーの家に飛び込んだ。「お早う」の挨拶もなしに言った。

Great Mother
「ジー、かあちゃんが助けてくれって」。ジーは起きていたが、まだ眠そうだった。しかし、私の様子から、状況が分かったのか、ジー「荷車がミゾにハマッタのか?」と言うと、一瞬で目に生気みなぎった。

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私「うん」。ジーは、ハマッタ場所が想像できたのか「大越の曲がり角だろう」。私「うん」私に質問しながらジーはもう動いていた。

Great Mother
太い2メートル位の丸太と、やはり2メートル位の板を手にしていた。そして、「細目の丸太」を持つと「タカシこれを持て」と私に差し出して、「行くぞ」と言った。

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小雨は少し小降りになっていた。母はジーの顔をみてホッとした顔で「ジー朝から済まんです」。ジー「なにすぐ出してやる」と言うと。

Great Mother
「太目の丸太」をミゾにハマッタいる車輪横に平行に置いた。そして、ミゾにハマッテいる車輪下の前方に板を押して食い込ませている。

Nostalgia Travel食い込ませた板は、地面と車輪に間に挟まって、30度位の角度がついたまま固定された。ジー「いいか今、俺が『テコ』でこの車輪を浮かせるから、そしたら二人でこの板を車輪の下に差し込め」

Great Mother
私が持って来た「細目の丸太」はよく見るとクイだった。ジーは「細目の丸太」の尖っていた方を先にして、「太めの丸太」の上から車輪下の地面に突き刺した。

Nostalgia Travel
そして、「太い丸太」を支点にして、45度ほど傾いて宙に突き出ている「細い方の丸太」の端を、ゆっくりと下に押さえつけ始めた。

Great Motherすると、ジーはそれほど力んでいるように見えないのに、荷車が浮いてきて、ミゾにハマッテ傾いていた荷車がやや平らになった。

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ジー「よし、タカシ、かあちゃん、板を下へ差し込め。もうちょいだ。そしオケー。」

Great Mother
ジーが「細目の丸太」を離すと、前ほどではないが少し荷車は傾いた。車輪の下になった、板は少し角度が増して40度位になって前方が浮き上がっていた。
ジーは荷車の前方に周り、荷車の荷台と引き手に入って、荷車を引っ張る体勢に入った。

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ジー「二人は後ろから押せ。いいか。セー・ノッで、行くぞ。」

Great Mother
ジー「いくぞ 。セー・ノッッッ」三人が一斉に力を入れる。車輪が「ギシッ」と音を立てると、板の上をユックリと登り始めて、車輪がはミゾから出た瞬間、40度に持ち上がっている板が「パタン」と地面に落ちた。片輪は板の上に有って荷車は、アッケナイほど簡単にミゾから出ていた。

Great Mother
その間10分間位だ。母と私があんなに必死でできなかったのに、あまりに簡単にミゾから出られたのに私は驚いた。

Great Mother
そして、その時、初めて「テコ」を見た。そして、それ以来「ジー」を尊敬した。

2008年3月22日土曜日

小雨のヌカルミで米を積んだ荷車がミゾにハマッタッて動かない。

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「かつぎ屋さん」の母の朝は早い、多分4~4時30分には起きて朝食の準備を始める。
ガスレンジも電気釜もない時代の炊事は、山や林から集めて置いた、タキギに火を付ける事からはじめる。
その間、炊事場から離れることはできない。我が家の台所はヒサシだが屋根と壁はワラで出来ていた。それに続く家もカヤと障子紙と木で出来たていたから、火もと管理を誤れば簡単に火事になるからだ。

Great Mother
炊事が終わったら、近くの農家を2~3軒回って数種類の野菜、米、モチ、タマゴなどを仕入れに行くが、6時頃出発のバスに乗らなければならない。

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母は自転車に乗れなかったから、一軒一軒歩いて集荷した。荷物の多いときは、大家から木製の荷車を借りて仕入れに行った。
この荷車は、タイヤも荷台も木製だ。牛や馬に引かせるように設計されているから、長くて大きく扱いニックイ代物だった。

Great Mother
物資のない時代だから、ゴム製のタイヤで鉄パイプで軽く扱いやすい、リヤカーが出てきたのは、多分弟が生まれた昭和30年(B.C1955年)頃からだと思う。更に、リヤカーが装着できる自転車が普及するのはその2~3年あとだと思う。

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その上、当時の道路事情は国道でさえ舗装されていない状態だから、我が家が済んでいた地域の道路は、あちこちに陥没のある砂利石を敷いた道路だが、あぜ道に近い。
いや、砂利石が引いてあれば良い方で、チョット脇道に入ると雨の翌日などは、ヌカルミになってしまう。そこに素足で脚を踏み入れれば、くるぶしの上まで埋もれてしまうような、土を踏み固めただけの完全なあぜ道だ。

Great Motherある日、少し早く起こされて、母の「仕入れの手伝い」をしたことがあるが、その日は前日の雨で仕入れの道すがらには、アチコチに水たまりのミゾがあった。

Nostalgia Mother当然、そのミゾは荷車が何度もはまった後で、ミゾからは砂利石がはじき飛ばされた大きなワダチだから、一端はまったら簡単には出らない。

米を積んでだ帰りそれを避けながら来たのだが、運悪く一番大きなミゾにはまってしまった。当時、弟が生まれて1年位足っていて私は小学校4年生だった。

Great Mother
相撲を取ると近所の同級生ではナンバーワンの私だったから、少しは助けになると思い荷台の後ろから押すの
だが、どうにも動かない。その内小雨が降り始めた。

Great Mother
母の顔を見ると鬼のように真っ赤な顔をして荷車を押したり、引いたりしていた。雨にぬらすと米が売り物のにならないからだろう。もちろんシートはかぶせてあるが、当時シートは防水性が乏しいものだった。

Great Mother
その頃父は、また住み込みで働きに出ていて不在だった。タカシ「山田のジー呼んでこい」と母は叫んだ。私はこの近在で一番の力持ち(少し酒癖が悪いけど普段は優しい)の「山田のジー」を呼びに走った。
「山田のジー」は弟が「ジー」と呼んで可愛がられていた以前話した「貧乏連合!」のお隣さんだ。

2008年3月21日金曜日

大荷物を背負う母と、赤ん坊の弟をオンブして並んで歩く。

Nostalgia Travel母は弟を出産して、半年もしない内から「かつぎ屋さん」ビジネスに出かけた。「かつぎ屋さん」は12月の年の暮れは特に忙しい。弟が生まれた月が8月でその年の12月は、母が出産して4ヶ月程度だが、東京のお客さんから注文がかなり有ったようだ。

Great Mother
それは、我が家に取ってありがたい事だった。父も母のビジネスを手伝ったが、ほんのタマニだった。理由は良くは分からないが、母のお客さんが東京の親戚やその縁者だったり、父の軍隊時代の部下だったりのためのようだった。

Nostalgia Travel
いずれにしても、母はまだ盛んに母乳を欲しがる、弟を抱きかかえながら「かつぎ屋さん」に出かけた。私も12月になると、日曜日や冬休みになるといつものように母の仕事を手伝った。

Great Mother
しかし、今回は手伝う内容が今までとかなり違っていた。私の役割は荷物を運ぶことではなくて、弟をオンブする役割だった。そして、母は仕事の合間を見て、私の背中から弟をほどき、抱きかかえて母乳を与えた。

Nostalgia Travel
当時はみんなが、必死で生きた時代で有ったが、それでも「かつぎ屋」のオバサンが「子供に赤ん坊をオンブさせ」大きな荷物を背負って、親子で並んで歩いていると、かなり奇異に見えたようだ。

Great Mother
12月はオモチや、餅米の注文が多くかなり、カゴの荷物はいつもの月よりかなり重い。母が一番大変なのは駅のホームから、ホームに移る階段の上り下り。そして、最寄りの駅から第一軒目のお客さんの家にたどり着くまでの道のりだ。

Nostalgia Travel
母は、頭上高く積み上げられた荷物を背負い、卵などが入った手さげカゴを両手にもって、前屈みになって息を切らして、足下を確かめるように歩く。転んだら最後、大ケガをする事は必死だ。「人生は重い荷物を背負って坂道を行くがごとし」徳川家康の格言、そのものの姿だった。

Great Mother
弟は、健康優良児でかなり大きな赤ん坊たった。弟の体重は、当時6~7キログラムぐらいあったと思う。比較的に力が有った私だが、まだ小学校三年生の子供の力は知れている。ただ、弟の重さに耐えることしか、母の力にはなれなった。

2008年3月20日木曜日

Nostalgia Travel and Great Mother 2

Nostalgia Travel
母の出産で「かつぎ屋さん」ビジネスが滞っているところに脳性麻痺の姉11才、私8才(小学校3年)、妹5才、弟0才に父母と6人の家族構成で、収入源がない状態が一年位続いたら、家計がひっ迫するのは当然のことだった。

Great Mother
これは想像ですが多分、父は妹を叔父(自分の弟)に養女に出すことに、気持ちがかなり揺れたと思う。ある日私が学校から帰ると家の中から母の大声がした。「どんなに苦しくたって家族で暮らすのが一番、ミエ子はやらない」。 父「・・・・・・」。

Great Mother
結局、父は母の強い意見に従った。その後母は、楽しいときも、辛いときも「家族みんなで暮らすのが一番!」をまるで自分に言い聞かせるように、ツブヤクのを、私達兄弟は聞かされた。私はその言葉を言うときの母を愛した。そして、今でも誇りに思う。

Great Mother
当時、赤ん坊は母乳で育てるのが普通だった。赤ん坊が大きくなって母乳が足りなくなると、足りない分を人口ミルクで補うのが普通だったようだ。幸い母は母乳が豊富にでた。それだけ家計が助かる訳だ。

Nostalgia Travel
母は元来あまり健康ではなかったようだ。第一子の姉と、その年子の姉は生まれて間もなく死んでいるが、その原因は母の健康状態の影響のように私は聞いている。

Great Mother
しかし、弟の出産前後は過去にないほど、母は健康だった。従って弟は兄弟で一番の元気者だ。今、思うと過酷な「かつぎ屋さん」ビジネスで、母の身体が鍛えられたのではないかと思う。

Nostalgia Travel
自分の体重の2倍ほどの荷物(食品)を背負って「駅の階段(当時はエスカレーターも、エレベーターもない)を上り下りする事は、男でも出来ない」と当時の男どもがいっているのを聞いたことがある。
その理由を男どもは「女性特有のおしりの体型がカゴを安定させて、あの大荷物を担いで階段を登れる」と言い訳していた。

Great Mother
私は、身体が小さい割に力が有ったので、小学校2年生位まで夏休みなど、休みになると母のかつぎ屋さんを手伝った。駅の改札で駅員に「坊や幾つと聞かれると」。私は「5才」と母に言い聞かされた通り答えた(小学校前は無賃乗車できる)

Great Motherそんなことから母が自分の体重の2倍ぐらい有るのではないかと思える、頭上高く積み上げられたカゴを背負って階段を上り下りする姿を何度も見ていた。私は、いつも母がコケないかと心配して見ていた。

2008年3月19日水曜日

Nostalgia Travel and Great Mother 1

Nostalgia Travel
弟は1955年生まれで父44才、母36才の子供だった。今で言う高齢出産であったが、当時としては珍しいことではなかった。

Great Mother
この地域の人々の間では、よく「40才過ぎての子供は可愛い」と言われていた。それは20才前後の大人に成り切れない時の子供より、大人として成熟してからの子供では精神的な余裕がそうさせるのだろうと思う。
そんなこともあってか、父は弟がひとしお可愛いようだった。

Nostalgia Travel父母の世代の農村地域では、嫁もその子供も農作業の働き手として重要であった。まだ、機械化されていなかった、当時の農作業は多くの人手を要していたからだ。

Great Mother
農村の娘は、初潮が有れば嫁にゆき多くの子供を産んだ。事実母の兄弟は10人ほどいて、母の一番上の姉と母は20才ぐらいの年の差があった。

Nostalgia Travel
避妊具があまり普及していなく、避妊意識も散漫な時代でもあった。この時代「嫁の子供より、姑の子供の方が年下」と言う現象も普通にあった。だから「高齢出産」と言う意識も言葉もなかった。

Great Motherしかし、農業規模が小さく子供が多すぎると、生活が立ちゆかなくなり、余裕のある親戚に養子、養女に出されることも珍しいことではなかった。いわゆる口減らしだ。

父母の時代に、さらに貧しい家庭の子供は、金銭の売買対象であった。男の子は都会の大きな商家に下働きの小僧として、女の子は遊郭に売られていった。

Nostalgia Travel
当時、我が家の生計を支えていた母の「かつぎ屋さん」ビジネスが、弟の出産でしばらく出来ない状態が続ていた。その結果、我が家の家計はかなりひっ迫していたようだ。
病から癒えた父だが、再就職するにも、44才という高齢者の働き口はそう簡単に見つかる時代ではなかった。

Great Motherそんな日々の中で横浜の叔父(父の弟)から「妹を養女にくれないか」との話があった。叔父の家には私より8才年上の男の子が、もう一人子供が欲しいと思っていた。しかし、叔母が病弱で今後子供が望めない事から、妹なら養女に欲しいとの話が有ったようだ。

2008年3月18日火曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation10

Nostalgia Travel
バス路線がようやく、我が家の近くにもできて、母の「かつぎ屋さん」のビジネスが、少しずつ増加していったのは、妹が3~4才位で、私が6~7才位の時からだった。

Impressible Generation
母は私達を山田さんや大家兄弟に頼んで、商売にでかけた。私は子供心に少しずつかつぎ屋さんのプロとして自信をつけて行く母の表情に気づいた記憶がある。

Nostalgia Travel
そんな私達の生活の中で、ある日母から「父ちゃんが病気になって帰ってくる」と聞かされた。そして帰ってきた父は毎日家にいて、主婦のように炊事、洗濯をして、私達子供の世話をした。そして母が毎日かつぎ屋さんビジネスででかけるようになった。

Impressible Generation
ある日父が、庭に出て私達子供に隠すように薬を飲んでいるのを見てしまった。我が家は6畳一間に、台所の土間だけだから、父はいつも外に出て薬を飲んでいた。それは、私達子供に「なんの薬なの?」と聞かれるのを恐れるようだった。
私は、直感的に私達、子供には言いがたい事情の病気なんだな~と感じた。そして、父の病気が何であったか推測できたのは異性を知ったあとだった。

Nostalgia Travelそんな、家族の生活が一年くらい続いたと思うある夜、夏でもない冬でもない多分初夏の頃、風呂場(その頃には、我が家にも風呂があった)から、父が台所にいる母に大きな声でなにやら話している声が、6畳まで浅い眠りの私の耳に聞こえた。

Impressible Generation父の言っている言葉の意味は、記憶にないが、父の言葉に応えて「いやらしいね!」と言葉とは裏腹に、華やいで答える母の声は、ハッキリと覚えている。

Nostalgia Travel
そんな日から、半年ほどして、母のお腹がふくらんで行き、私達の兄弟が母のお腹にいることを知らされた。
母のお腹は日増しに大きくなった。母は食欲もおおせいで、みんなが元気な子供の誕生を心待ちにした。

Impressible Generation
ある日の朝、産婆さんが来て、6畳間に白いシーツのカーテンが仕切られた。子供は全員、家から出された。庭で出されてその時を待つ私達は、苦しそうな母の声を心配していたが、やがて「オギャー」となく赤ん坊の大きな声が聞こえた。

対面した赤ん坊は、4キログラムもある元気な男の子だった。母はお風呂上がりのようなすがすがしい顔で、嬉しそうに弟を抱いていた。
私は、その時の弟の顔は覚えていないが、その時の母は、優し時の母の顔で、私は何か不思議な出来事のように母の顔をみつめ「母ちゃんきれいだな~」と思った記憶がある。

Nostalgia Travel
弟が生まれたのは、父の誕生月と同じ8月だった。父は8月1日で弟は8月2日だった。その時、私は小学校三年生だった。

2008年3月16日日曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 9

Nostalgia Travel
私が小学校に入学した頃から、この農村地域にも自転車、バス路線(木炭車ではない)などがの移動手段や、水道のインフラが整備され始め、テレビ(モノクロ)も徐々に普及し始めた。

Nostalgia Car
私が初めて原動機付自転車(バイク)を見たのは、小学校2~3年生だったと思う。この当時の原付自転車は文字道理のものだった。少し大きめの自転車の後輪部分に原動機(ガソリンエンジン)が付いているものだった。

Nostalgia Travel今で言えば、バイクよりもモーター付き自転車に近いものだった。大きな音を立てて走るがアスファルト舗装の道路は、この地域で皆無な時代だから、最大速度はせいぜい40Km位と思う。

Nostalgia Car
エンジンの始動はセル始動の技術が完成されていない時代で、アクセルを開放しながら、クランク・フットバーをキックしてエンジン始動していた。

Nostalgia Car
自動車エンジンには詳しくないが、クランクを始動させるバッテリーのパワーがないから、ピストンにつながるクランク・フットバーをキックして、ピストンのガソリン吸入始動を助けたのだろう。

Nostalgia Car
自動車も最初に見たのは我が家の近くで、殺人事件が起きた時だった。自動車と言っても三輪自動車で屋根は布製のホロが被っていて、ドアはなくて、ハンドルは丸ハンドルではなく、自転車のハンドルと同じ形状だった。

Nostalgia Travel
この事件の被害者は、三輪車の運転中に後部荷台に載っていた犯人に、ホロ屋根の上からナタを振り下ろされて、殺された事件だった。

Nostalgia Car
この三輪自動車もセルがない。エンジン始動はキック式だった。それでも、その以前の車はクランク手動式だから技術革新していた。

Nostalgia Carクランク手動式というのは、バンパーの中央に小さなアナが開いていて、そのあなに鉄のクランク棒を1mほど差し込んで、バンパーから出ている、そのクランク棒のハジを両手で持って、思い切り回転させてエンジンを始動させる方式だ。

Nostalgia Travel
今の時代では考えられない程、旧式なバイクや自動車だったが、それでも内燃式エンジン車が普及し始める事で、遅まきながら我が家の近くにもバス路線ができた。

Nostalgia Travel
このバス路線ができたことで、母のかつぎ屋さんの仕事の頻度が格段に増えた。そして、我が家の家計も少しずつ明るさが見えてきた。

2008年3月15日土曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 8

父はMeiji Generation year43(B.C1911)生まれで、母はTaishou Generation year7(B.C1919)生まれだった。従って二人とも激動のSyouwa Generationを生き抜いた夫婦だった。

私は父36才、母28才の時に生まれた、Syouwa Generation year22(B.C1947)生まれの戦後育ちだ。昭和の激動を知らない世代だが、激動の片鱗を記憶しいる。

その記憶を頼りに、Nostalgia Travelを続けよう。終戦直後の移動手段はもっぱら、徒歩が圧倒的に多かった。当時の人は、一日に10Km位歩くのは当たり前だった。

Nostalgia Bicycle
我が家があった地域にはバス路線がなかったし、この地域で自転車が普及し始めたのも終戦後7~8年(1952~3年)位してからだから、歩く以外に方法がなかった。

Nostalgia Monochrome Movie
小学校の遠足はまさしく遠足で、徒歩だった。近くに竜ヶ崎市と言う市街地あって「大正座」と言う映画館もあった。小学校の行事に映画鑑賞があり、大正座に数回言った記憶があるが、いも徒歩だった。

Nostalgia Car
その大正座の客席は「枡席だった」(座敷に木の柵で仕切られた席で10人位で座る)。この竜ヶ崎にでると、バスもタクシーも走っていたが、煙突がついていて黒い煙を上げながら走る木炭車だった。

Nostalgia Taxe Fare
東京に親戚が多い関係で、我が家はこの地域の人たちから比較すると、東京に出かけることが多かったと思うが、帰りはタクシー運賃が高くていつも徒歩だった。

Nostalgia Train is engine
当時の鉄道を走っているのはモッパラSL(蒸気機関車)だった。戦争中は鉄製の物はほとんど溶かして戦艦になった影響で、鉄道を走る機関車も客車も不足していて、今のラッシュなど比較にならないほどの混雑だった。

Nostalgia Train is Gold Rush
スシ詰め、どころか屋根に乗ったり、ドアがないデッキの手すりに何人もつかまって乗っていた。子供だった私は、何度も窓から乗せられた記憶がある。

Nostalgia Trein is Gangerまさしく命がけだった。デッキや屋根から振り落とされて死んだり、大けがをする乗客がいたが、当時の乗客は列車に乗る時は、そんなことは皆覚悟の上だった。

しかし、これも戦後を生き抜こうとする、民衆のエネルギィーだった。
World War after of Generation Japanese Power

2008年3月14日金曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 7

Nostalgia Travel母は一度だけ、父が住み込みで働いていた職場に、私達兄弟3人をつれて行った事がある。多分、姉が7才、私が5才、妹は2才位だったと思う。Syouwa Generation year52の頃だ。

私の記憶では、父が案内してくれた場所は、2段ベットが5~6個並んだ薄暗い部屋だった。座る場所もなく、母と父がなにやら話していたが、一度父が中座した。

その間、母は父のベットらしき場所に、女物のベージュに、朱色が鮮やかなジャンパー(母好みではない)を見つけて「こんなものを買ったとは一言も聞いていないけど、一体誰にくれるものだ・・・・」と怒りに満ちた語気を、吐いたのを覚えている。Nostalgia Travel父が戻ると、母は「一体これは誰の?」。父「おまえに買ったんだよ!」。母「こんな派手なの私着ないわよ。」

そんなやいりの後、父の友人らしき男が入ってきて「田口、タバコくれ!」と言い。父は当然のように「お~。」と言ってタバコを差し出す。
「女房だ!」と母をその男に紹介した。母、急に笑顔になって「いつもお世話になります」。男は「あ・・・奥さん。いつもこんな感じでお世話になってるは、私の方です。」と笑いながら言った。

その日は、その近くのNostalgia Trabel and Syowa Generatio Hotelに泊まった。今で言うモーテルのような場所に、宿泊した記憶がある。家族全員で風呂に入って、ハシャイダ自分を覚えている。

しかし、その後の家路に向かう道のりは、過酷だった。Nostalgia Travel Road
当時は、我が家ある地域にはバス路線もなかった。一番近い駅から歩くのだが、最も近い駅でも約5Kmある。
母は姉をオンブして、妹を抱いて、私をなだめすかしながら5Kmの道のりを歩いた。
母が私達を、大家や山田さんに預けずに、家族総出で、父に会いに行くにはただならぬ、決意を持っての行動だったと思う。

この道は、その後何度か歩くことになる。今はアスファルトに覆われているが、この駅からのTravelの道すがらには、「激動のSyouwa Generation」を生き抜いた女の汗が染み込んでいる。Nostalgia Travel

2008年3月13日木曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 6

父からの仕送りが遅れると、母は近所の裕福な家や、金貸し、質屋などから生活費の手当をしていた。それでも足りないと、「かつぎ屋さん」をして日銭を稼いでいたようだ。後に、この「かつぎ屋さん」ビジネスは私達一家の家業になる。Nostalgia Travel

父親は東京生まれで、両親が結婚したばかりの一時期は、東京に住んでいた。もちろん戦前Syouwa Generationの事だ。そんな関係で、東京には父親の兄弟始め親戚が何件かあった。

その親戚達は、東京大空襲で東京が壊滅状態になり、親戚は都心から離れた地域に移り住んだが、食べ物が充分に行き渡っていなかった。

これは、うちの親戚だけに限ったことではない。空襲で、交通機関、交通システム、通信システムが破壊され、焼け野原の東京に取り残された民衆の食料を、当時の政府は確保出来なった。従って、当時は農村地域のほうが、はるかに食糧事情が良かった。Nostalgia Travel

当然、米(餅米も)、塩、砂糖などは物価の高騰を抑制するために、統制販売品になっていた(これは大戦中もだ)。統制品となれば、当然ヤミ売買が発生する。Nostalgia Food

そのヤミ売買の一端を、担ったのが「かつぎ屋さん」だ。
当時、食料品、生活雑貨(衣類、寝具、食器、洗剤など)などは東京に持ち込めば何でも、その日の内に売れた。Nostalgia Food

「かつぎ屋さん」それは、農家のおばさん達が「野菜、モチ、米など」をカゴに山のように積み上げて電車で東京に運ぶ、運び屋だ。

統制品を、その取り締まりをする警察や鉄道公安などの目を盗んで運ぶ訳だから、今の時代ならあり得ない事だが、当時は生計を立てるためなら、当然のリスクだった。Nostalgia Travel and Food
また、罪の意識など、誰一人持っていなかった。

2008年3月11日火曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 5

この様な極貧だったが、私の母親はたくましい女Nostalgia Motherだった。この土地柄に自ら積極的にとけ込んでいった。

我が家の「マデ屋」Nostalgia Homeは借家だったが、大家の男親は結核をわずらっていた。この大家の家には私より10才位上の男子と、8才位上の女子がいた。

私達が「マデ屋」Hostalgia Homeに住んでから、2年ほどでその男親が亡くなった。母は、残された二人の兄弟を。私達と同じ兄弟のように育てた。私達兄弟はその男子を「あんちゃん」と、女子を「ねーちゃん」と呼んで育った。母はこの二人を親代わりになって、就職から結婚までさせた。

我が家Nostalgia Homeよりましだが、この地域で我が家の次に、貧しい家があった。その家には、私と同じ年の男の子と、妹と同じ年の女の子がいた。

ほぼ同レベルの境遇であったからか、母親Nostalgia Motherはこの家(仮に山田さんとしよう)の夫婦と本当に親しくしていた。大家の井戸が涸れてしまったあとは(当時まだ水道が普及していなかった)、Nostalgia Yamada山田さんの井戸から「もらい水」していた。

また、我が家にはしばらくのあいだ、風呂がなかったので、山田さんや大家からの貰い風呂だった。
もう一軒もらい風呂している、家があった。仮に菊池さんと呼ぶが、この菊池さんには、我が家にも大家にも、山田さんにもないラジオがあった。Nostalgia Travel

母は、この菊池さんの家に貰い風呂するときは、いつもウキウキしていた。そして、菊池さんの「もらい風呂」の時は、ほとんど妹と姉を寝かしつけてから、私だけを連れてていった。Nostalgia Bath

もらい風呂だから、当然その家の人が全員済んでから入るのだが、風呂からでるのは多分20時頃だろうと思う。ラジオの浪曲放送が始まる。Nostalgia Radio
母は風呂上がりに、菊池さんのラジオから流れる、その浪曲を「ささやかな楽しみ」にしていた。

私だけを連れて行ったのは、妹は小さすぎて浪曲放送の間にグズッタリして。その楽しみを邪魔しそう。姉は身体が不自由なので、菊池さんと家の道のりが少しあるので、帰る途中で風邪を引かせてはいけない。などの配慮があってのことと思う。Nostalgia Small Travel

親は、子供の「嬉しい顔」を見るは嬉しものだが、子供だって親の「嬉しい顔」を見るのは楽しいものだ。当時の私は5才ぐらいだと思うが、黙って母の楽しみに付き合っていた。Notalgia Mother
その内、いつしか私も浪曲ファンになっていた。 今でも広沢利造(字は自信ないが)の「森の石松」を聞いて感動したのを覚えている。Nostalgia Rookyoku Sound

私はカラオケNostalgia Karaokeで、感情を込めすぎてしまう傾向があるのは、この時の浪曲の影響があるかも・・・・・・?

とにかく、こんな風で母はたくましかった。今思うと母はホームドラマ的で、単純で、おもしろい人間像を持っていた。

この単純さが、良くも悪くも母をたくましくしていた。これは母についての私の自慢の一つだ。人に恵まれたのか、時代が許したのかは、分からないが「母はたくましかったナー」と自慢に思う。
Nostalgia Mohter

2008年3月10日月曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation4

Nostalgia Homeマデヤの語源は、「物をかたづけること」をこの地方ではマデルという。従って「かたづける」てしまっておく物置小屋は、この地方では「マデ屋」と言った。

この地方に移り住んだのは、私が3才の時だった。生まれて一歳にもならない妹と2才年上の小児麻痺の姉と5人家族で暮らしていたが、私達家族はこの地方では浮いた存在だった。Nostalgia Travel

3才までは母親の生家がある、富山県の伏木町という港町に住んでいた。家族5人のうちで茨城生まれは姉だけだった。Nostalgia Generation

ガダルカナル島沖で父が乗船していた戦艦が沈没させられ、命からがら帰国した、父は霞ヶ浦海軍司令部勤務になった。霞ヶ浦海軍航空隊は軍歌に良く登場するが茨城県にある。戦火激しい終戦の1年前にそこで、姉は生まれた。Wer Generetion

海軍司令部は米軍にとって、日本を本土攻撃にはまず制空権を奪取する必要があった。そのため、霞ヶ浦は米軍の重点爆撃目標であった。
ある日の午後B29が飛来してこの海軍司令部を爆撃した。基地周辺に住む兵士の家族達も防空壕に避難した。しかし、防空壕は前日の雨で腰まで雨水がたまっていた。Nostalgia Travel

母は姉をオンブして一晩中その防空壕に避難していたが、生後6ヶ月の姉は身体が冷え切ってしまった。その後、姉は風邪をこじらせたのが病の始まりで、数週間高熱が続いた。物資のない時代で医者がいても処方する薬がなかった。結局、姉は一命を取り止めたが脳性小児麻痺という障害を背負って生きて行くことになる。

そんな姉を含む普段、男親がいない女所帯で、言葉も違う、極貧の我が家は、この地方では浮いた存在で「マデヤ」の屋号で呼ばれていた。Nostalgia Generation

2008年3月9日日曜日

我が家の屋号はマデヤ(物置)に住んでるからマデヤ

私の住んでいた地域は、農村地盤という土地柄もあってか、隣近所のプライバシーなどあってないようなものだった。Nostalgia Travel

特別の家庭を除いて、どこの家の間取りも2~3間に土間(農作業の作業場兼台所)があって、外部との仕切りは障子と雨戸だが、この雨戸は隙間だらけの戸板が普通だった。それだから子供を叱るお母さんの声などは、どこの家も隣近所につつぬけになっていた。Generation May Home

戦災で家を失って、移り住んだ(戦時中は、戦災をさけて地方に移り住むことを疎開と言った)茨城の我が家は、更に狭かった。物置の半分を仕切った家で、6畳一間に土間があるだけだった。Generation Small Home
我が家Generation May Homeの土間は少し、多の家とは違っていた。農作業用の土間ではなく、台所だったから極端に狭かった。そこに、両親と私と2才上の姉(脳性小児麻痺)と3才下の妹の5人で住んだ。

隣近所は農業所得だが、疎開の我が家には農地がなかった。そんな地域環境の中で、我が家だけ今で言うサラリーマン家庭だった。

父親は戦前、日本水産の捕鯨船の船乗りだったが、当時は花形職業で一航海で家が2~3軒たったとよく豪語していた。戦後もその仕事に戻りたかったようだ。Nostalgia May Father

戦中も海軍兵として船艦に乗っていたが、ガダルカナル沖で米艦隊に沈没させられた。そのとき砲弾の破片を身体に受けた影響で、酷寒の南極海洋での捕鯨船乗務は不可能となった。War Generation

しかし、船に関わる仕事を横浜方面でしていた。当時の交通事情では、通勤など不可能なので、住み込みであった。Nostalgia Travel Train

そんな事で、この地域で我が家だけは当時としては異色のサラリーマン家庭だった。そして、ひときわ貧しかったようだ。Nostalgia May Family

この農村地域には、昔この地域の名士から「氏性」を貰った関係から同性者が多い関係で今も、屋号でお互いを呼びあう。
我が家の屋号はいつしか「マデヤ(この地方では物置小屋を言う)」になっていた。そして、私達兄弟は「マデヤの子」と呼ばれていた。Nostalgia May home

2008年3月7日金曜日

ベビーブーマーのTVスターは力道山だった。

Nostalgia Generationいつの時代も、テレビの影響を一番敏感に受けるのは子供でしょう。紙芝居の画像ではイメージが貧弱だが、テレビの動画は子供のヒーロー願望に一気に火を付けた。

Nostalgia Monochrome TV
この時代、大人も強いヒーローを求めていた。終戦直後の貧しい生活と、敗戦の心の痛手に打ち勝つて生きて行かねばならなかった。その現状を支える強いヒーローが必要だった。

Nostalgia Hiro RIKIDOOZAN
そんなヒーロー願望を支えたのが、プロレスの力道山だった。彼は大相撲出身でかなり強かったようだが、脚のけがをから、プロレスに転向した。アントニオ猪木やジャンアント馬場の師匠だ。

Nostalgia Professonal Wrestling
力道山が、大きな体の米国人プロレスラーを空手チョップでなぎ倒すと、家電屋のガラス越しに見ているヒゲモジャの親父連中が、大歓声を上げて興奮した。大相撲では小さな身体で大きな力士をなぎ倒す初代若乃花がヒーローだった。Nosalgia Sumoo Hiro WAKANOHANA

Nostalgia Adult Hiro and Child Hiro
大人も子供もヒーローを一番求めていた時代だったかも知れない。戦争で、外国に一度もひれ伏したことがない日本人が、無条件降伏と言う、屈辱を味わった訳だから当然の成り行きだろう。

Nostalgia Generation
時代は厳しく、生活は貧しかったが、みんな一緒に貧しかった。テレビのヒーローにみんなで興奮して、悲劇のヒロインにみんなで涙したて、子供の成長に大人達はだれもが夢をみた。

War Generation
戦争で国は完膚無きまでに負けたけど、国民は負けっていなかったのかも知れない。軍政がとけて自由になった国民は活力を取り戻していたのかも知れない。

Nostalgia TV Hiro and Hiroine
テレビのヒーロー、ヒロインは間違いなく、その活力源になっていた。当時のテレビの普及は日本人の活力源だったことは間違いない。

2008年3月6日木曜日

ベビーブーマーのアニメスターは月光仮面、赤道鈴の助

Nostalgia Travel and Impressible Generation
昨年、「とうとう俺も還暦になったか!」と思ってその実感もない内に、もうすぐ1年になる。いわゆる団塊の世代の筆頭だ。

World War Generation
第二次世界大戦の4年間は(日本では太平洋戦争とも言うが)で男が兵隊に取られて、日本の国内から男が少なくなって子供が極端に生まれなかった。

Impressible Generation
昭和20年8月終戦になって、戦地から男が帰ってきて一気に子供が生まれた。昭和21年~24年に生まれた我々世代を団塊の世代、別名第一次ベビーブーマーと言っている。当然、この現象は、アメリカでもヨーロッパでも同じ現象で起きている。

Baby Boom Generation of economy effect
団塊の世代が小学校に入学すると一斉に、教室が足りなくなって小学校の建設ラッシュ。中学でも、高校でも、大学でも、そして卒業すれば、労働人口が一斉に増えた。結婚適齢期になれば、ブライダルマーケットが一斉に活況を呈した。そして、我々の子供は第二次ベビーブーマーと言われている。

Nosalgia Anime Hiro is TETUWAN ATOM
団塊の世代は、何かと競争意識をあおられながら生きてきた。この世代のアニメヒーローは、月光仮面、赤胴鈴の助、鉄人28号、鉄腕アトム、巨人の星、明日のジョーが時代のヒーローだった。最近では「はじめの一歩」が好きかな。

Impressible and Strong Generation
とにかく競争が激しいから、一生懸命とか、一心不乱とか、粉骨砕身など根性、根性、また根性そんな世相の中で生きてきた。

Nostalgia TV Anime Hiro GEKKOO-KAMEN
昭和30年頃(1955年)月光仮面はアニメからテレビドラマ化されたが、初めて見たときには「一体どうなっているんだこの電気紙芝居は!」と子供心(8才)に思ったのを覚えている。

Nostalgia Farm Village IBARAKI
茨城の片田舎に住んでいた私がそれまで見ていたのは、画像にもなっていない漫画か紙芝居だった。
それが、映像(もしろん白黒)になったのだから驚きだった。

Nostalgia a Picture Card Show
紙芝居のおじさんが、どんなにタクミに声色(こわいろ)を出しも、テレビに若い女性の声や動きには遠く及ばない。テレビが10所帯に2所帯ぐらいまで普及したときには、いつしか廃業になっていた。