2008年6月20日金曜日

エキサイティング神事「アンバー大杉大明神」

この農村地方には祗園祭り以外に農村地方ならではの神事があった。今は行われていないが、それはエキサイティングな神事だ。


それは、田植えが終えた頃(5月)に行われる神事である。「何という神事か」明確に覚えていないが、ただその全容はこうだ。


この地域の青年団の主催で行われる神事だが、主役はむしろ地元の中学生や小学校の高学年生の子供達だった。だだし全員男子だけであった。


10メートル程度の杉の木(定かではない多分そうだと思う)を近隣の小山から伐採して、その枝に半紙で作った「白い神紙」をまんべんなくククリ付けたものが、オミコシ(御輿)の替わりになる。


その杉の切り株の太い方(根本の部分)を荒縄で縛り、荒縄は左右に4~5メートル延長される。その左右の荒縄を数人の屈強な青年団員が数人で持って、御輿になる杉の木の動きをコントロールする事になる。


そして幹の太い部分から高学年の中学生、そして小学生順に低年齢化して30~40人で、杉の木の幹や枝を持ちたづさえる。


その周りを、20人前後の男子青年団員がカネや太鼓を打ち鳴らしながら、子供達を取り囲み、その全員が大声でノリトを唱えながら200~300所帯の農家を、一軒一軒練り歩く。


ノリトだけは、ハッキリ覚えている「家内安全、アンバー大杉大明神」だ。この「アンバー大杉大明神」の神事は、私が中学生になった時にはもう立ち消えに成っていたから、神事の意味も「アンバー大杉大明神」の意味も不明だ。


ともかく「アンバー大杉大明神」と唱えながら、奥山地区にある神社(小高い山の上にある)から午後の4時頃にスタートする。その神社は、寺と同居していて山門や境内があり、ウッソウとした木々に囲まれている。


その境内の中央に、大人5人が両手で囲むほどの、大きな木があったが、それが「杉の木」だったか、定かな記憶ではない。


その山門の両端に、口を大きく開いたアギョウ(阿形)と口を「へ」の字に閉じたウギョウの金剛力士がまさしく仁王立ちしている。


山門を背にして出ると、200メートルほど真南に真っ直ぐ延びる参道があり、その両側は見事な桜並木になっている。


ここは近隣の四つある小学校の花見の場所に成っていたが、この花見では各学校対抗(高学年生だけ)のケンカになるのが毎年の恒例だった。


当時、子供のケンカはどちらかが泣くか、鼻血が出れば勝負ありでそれ以上相手を攻撃する事はない。このケンカもどちらかのリーダーが逃げれば、それで勝負ありでスポーツのようなものだ。
1チームの構成は、腕に自信のあるものだけで15人程度、あとは勝敗を見届けたい野次馬がほとんどだ。


そして、花見の翌日は決まって、先輩の中学生に「今年は勝ったか?」と聞かれる。
前年勝利していた先輩達に聞かれたりすると、何も言えずうなだれてしまう。
「何だ、負けたのか? だらしねーな」と一蹴される。先輩達は、5年生に向かって「来年は勝てよ!」と叱咤する。


そんな事でこの神社は、この地域では子供の頃から村中の者達が親しんでいた。
その桜並木を通って約2キロほどは、林や畑の中を軽自動車一台が、ようやく通れる程度の細い道を「アンバー大杉大明神」と叫びながら「南」と言う地区に向かう。そして「片町」、「宿」と練り歩いて「奥山」に戻る頃には深夜の12時頃になる。


当時の農家の垣根はほとんどが「竹組」や「生け垣」で出来ていたから、杉の御輿が入る時、垣根を壊してしまうこともあったが、それはそれでお目出たいことであった。


この地域の夜は、明かりと言えば星と月明かり、音は「虫の音」「カエルの声」ぐらいで何もないが、この日の夜は賑やかだった。


遙か遠くから「アンバー大杉大明神」の怒声とカネ太鼓が聞こえて来る。そして我が家の近くにある休憩所からはモウソウダケ(孟宗竹)を叩く音が聞こえて来ると、あまり遅くない時間であれば近所の子供達がその休憩所に向い、担ぎ手を出迎える。


この地域では子供の火遊びと夜遊びは、決して許されなかったがこの日は、この御輿が来るまでの間の夜遊びは例外だった。


我が家に初めてこの「アンバー大杉大明神」が来たのは8時頃だったと思う。
大家の庭から我が家の狭い通路に、御輿が入りきれずに少し放れたところで「家内安全。アンバー大杉大明神」と唱えてくれた。


そして、少し遅れて現れた二人の男に、母「トシオさん。有り難う御座いました」と当時、青年団の団長だったトシオさん(ミッちゃんの旦那さん)に「ご祝儀」を手渡した。


トシオさんは、私の姿を見ると「タカシくん幾つだっけ?」。母「来年、一年生よ」。
トシオさん「そうか。ジャア、来年はここの組合だけ『アンバー大杉大明神』しようか?」。私は嬉しくなって「うん」。


母「あら! タカシ良かったね」。私は一人前扱いされたことが、嬉しくて舞い上がりそうだった。


組合とは冠婚葬祭に協力し合う「頼もし講」だ。我が家の近所隣り10所帯程度が組合だった。


その「アンバー大杉大明神」の休憩所には、オニギリ、味噌汁や酒などが用意してある。その仕出しの準備は女性団員の役割だ。


御輿の担い手が残したものは、その地域に子供達に分け与えられるが、始めからかなり多めに準備されていた。煮詰めた油揚げ、糸昆布、人参、ゴボウなどを、ご飯に絡めて作ったそのオニギリは、当時私がそれまでに食べたオニギリの中で格段に美味しいものだった。


この「アンバー大杉大明神」で若い男女の親交が深まり、恋愛結婚するカップルもしばしばだった。ミッちゃんとトシオさんも「アンバー大杉大明神」が取り持つカップルだった。


ミッちゃんの家は農地解放(戦後)の前は、トシオさんの家の小作人(耕作地を地主から借りている農業者)だった。従ってミッちゃんは玉の輿だった。


母は「カツギ屋さん」で運ぶコメを、定期的にトシオさんの家から買っていたから、私はそれまでトシオさんに何度も逢っていて「カッコイイお兄ちゃんだな~」と思っていた。


母は、コメの仕入れで値切った事が一度もなかったから、地元の農家でも人気があった。
御輿の担ぎ手は、ほぼ4年生以上だったから、トシオさんが私を誘ってくれたのは特別の事だった。

2008年5月31日土曜日

ワクワクさせる祭りの笛や太鼓の音

我が家がある、この地方には幾くつかの「祭り」があった。秋の収穫後の10月頃には「祗園祭り」がある。

この祭りは3日間つづくが、200所帯程度の三つの隣あった集落に、それぞれ「この祭り」はあった。
集落はお互いの祭りが、かち合わないように4~5日づつ、ずらして行われていたから、ほぼ一ヶ月は笛や太鼓の音が夜半まで聞こえてた。


私は、この時期が好きだった。娯楽らいしいモノは何もない、この地方の日々の生活の中で、祭りは唯一の娯楽だった。


地元の祭りでは、腹に響く太鼓の音、軽やかに舞うように響く笛の音が間近に聞こえる。隣の集落の祭りでは遠くから、時折り風に消されたりして、笛や太鼓の音が響いて来る。



そんな祭りの匂いが、私の子供心をワクワクさせてくれた。そして、祭り気分に浸っている母や大人達も、いつもより、ハルカに笑顔が多く、心が沸き立っていることを感じさせた。


毎年、集落毎に祭りのデキバエをを競い合っていた。
多くのデミセ(出店)もあり、舞台が設置され「奉納の舞い」もあり、「武将に扮した者が、馬上から弓矢でマトを射る競技」もあった。


この弓矢でマトを射る競技を始めて、しかも間近で見た時、その迫力に私は圧倒された。
遠くから砂煙を上げて走り来る「馬上の武将」が、20~30メートル毎に置かれたマトを、次々に射抜く様は子供の私を圧倒した。


目の前を通過する騎馬の足音は、大地をトドロカセて私の足下から全身に鳴り響びいた。「パシッ」と言う音が空を切り裂くと共に、射抜いた矢にマトが割れて飛び散る。


馬の響きが遠ざかる。砂煙に騎馬と武将が遠ざかる。「パシッ」。次のマトが飛び散る。もう砂煙に騎馬がかき消える。さらに遠くで飛び散るマトだけが見える。


この馬駆けは、私の子供心を圧倒した。そして、大地をトドロカセた「全身の響き」が鮮明に残る。その興奮の記憶だけは、今も鮮明に残っている。


それぞれの集落には、それぞれ神社がある。この神社が京都の祗園社と、どのようなツナガリがあるかは知らない。


また、京都の祗園祭りも現実に見知っている訳ではない。しかし、この祭りは規模こそ小さいがテレビで放映される京都の祇園祭り、さながらであった。


そして、「今年は『立木』の祗園が一番だっぺ!」。「ウダ。今年は『立木』に負けたな!」とそれぞれが、思い思いに、それぞれの集落の「祗園祭り」のデキバエを批評する。

2008年5月22日木曜日

「もったいない」は日本人の文化か信仰か!

Nostalgia Travel
戦後、占領軍(GHQ)によって農地解放が行われたことは誰もが周知の事だ。農地解放から1000年ほど、さかのぼっると平安時代だが、この時代に年貢米制度が確立された。

Great Mother
以来、農業従事者は、自分たちが作った米を租税として、厳しく大名に納めさせられた。この時代から、農地を持たない「小作人」の中には一生の間に一度も白米が、食べれない者も珍しくなかった時代があったようだ。

Nostalgia Travel
私が見た幾多の時代劇映画の中で、彼ら「小作人」が病床での断末魔の言葉は「白いご飯を食べて死にたい」だった。

Great Mother
この断末魔の言葉は、あながち全くのヒクションとも思えないが、この時代あたりから「もったいない」の語源が生まれたかもね!

Nostalgia Travel
「かつての日本人」の米(稲作)に対する思い入れは、文化と言うより宗教に近い。その証拠に各地にある祭りは稲作と深く関わりがある。

Great Mother
その年の豊作を願う祭りがあると思えば、その年の豊作を祝ったり、感謝したりの祭りある。よく知らない外国人は日本人を無宗教と言うが、日本人には稲作に深く根ざした宗教が、かつてあった。

Nosgalgia Travel
だから、稲作に関わる全ての現象(森羅万象)を、神とアガメル多宗教が真実の日本人だ。「かつての日本人」は、この世の全てに神仏を見た。

Great Mother
雨の神、風の神、雪の神、川の神、山の神、海の神、太陽、月、星、キツネ、タヌキ、馬、牛、イヌそして草花にも、何にでも神を見た。

Nostalgia Travel
「草花にも話しかけるのは日本人くらいだ」と言った韓国人の友達がいたが、本当かも知れない。最近、私もブッカ(仏花)に話掛けて、ハット我に返り、その友達の言葉を思い出す。

Great Mother
多分、欧米人には理解されないと思うが、稲作などの小道具にも「かつての日本人」は神仏を見る。それ故に老朽化して、どうにも使えない小道具をそのまま捨てることはない。
その農具を取っておき、毎年決まった日に神社に奉納してマツル(祀る)事で、長年の労に感謝する。

Nostalgia Travel
衣服を縫う「ハリ」を供養する神事もある。ハリが折れても、そのまま捨てないで取っておいて、毎年決まった日(2月8日、12月2日)に「柔らかい豆腐やコンニャク」にさして神社に奉納する。

Great Mother
唐獅子はライオンの存在を唐(中国)から伝え聞いた「かつての日本人」のイメージから作り出された産物だと聞くが、その想像上の唐獅子でさえ神社の守り神に成っている。

Nostalgia Travel
なんと言っても究極は「道祖神」だろう。「かつての日本人」は徒歩で旅行く、その道すがら「道の神、道祖神」に「旅の安全」を祈願した。

Great Mother
先人が作ってくれた、この道は最初はただのケモノミチ(獣道)だったかもしれない。その獣道を幾多の先人が踏み固め、踏み固て「道」にした。

Nostalgia Travel
多分「かつての日本人」は、その先人達の労苦や思いに感謝して「道祖神」を作ったのではないか。
こんな日本人だから、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝う事に何のわだかまりも、持たない。もちろんイベントとしてだが。

Nostalgia Travel
誰かが、何か(キリスト、ブッタ、マホメット)を大切にするなら、それに異論はないし、それを尊重するし、それを敬う事も出来るのが日本人の特徴だ。

Great Mother
宗教的にいい加減な、日本人の神は「森羅万象」だから、タヤスクそれが出来きる。誰かが言っていたキリストもマホメットも砂漠の神だが、砂漠の神は過激で争いが絶えない。

Nostalgia Travel
しかし、日本人のようなカリスマを持たない、いい加減な宗教(神は森羅万象)が、もう少し世界中に普及したら世界は、もう少し平和になるかもね!!


My site is the original Japanese vanishing landscape and the rich Japanese sentimet can stroll through the site

2008年5月18日日曜日

重労働の農作業と『もったいない』

Nostalgia Travel
母「今日、トシオさんも一緒に来ていると良かったね。もうシロカキでいそがしんでしょうね?」
姑「シロカキやら。田植えの段取りで、助っ人の手配もあるし大忙しだっぺ」

Great Mother
我が家は農家の集落のど真ん中に住んでいたが、全く農地を持っていなかった。従って稲作の実務について私は無知だが、カタワラで観ている範囲の知識では、次のような行程があるようだ。

Nostalgia Travel
①田うない
昨年の稲刈りのあと秋、冬の間、放置してあった田は、雑草などが生えて土壌は硬くなっている。それを掘り起こし、田の土壌に充分空気が入り込ませて、土壌が水を含みやすくする。

Great Mother
「うない」また「うなう」とは、土を掘り起こすことである。当時はトラクタのような農業機械がない時代だから40~50Kgもありそうな「大きなシャベル」を農耕用の牛や馬に引かせて、「田うない」をしていた。

Great Mother
ちなみに、馬は牛の二倍近いスピードがあったようだ。ただ馬は情緒が牛より不安定で扱いは、難しいようでもあった。

Nostalgia Travel
しかし、牛や馬を飼っているのは、大耕作地を持つ比較的に裕福な農家だった。普通の農家はこの作業をマンパワーで行っていた。

Great Mother
②シロカキ
「田うない」の後「田んぼ」に充分水を引き込み、土壌に冠水させた後、大きな鋤(スキ)を、やはり牛などに引かせて、土壌の粒子を細かくしてドロ状にする。

Nostalgia Travel
ドロ状する事で田植えの時の「苗」が土壌にササリ易くする。

Great Mother
③苗作り
昨年収穫した「種モミ」を「上質な田」を選んで、その一角に蒔いて苗を作る。
今はビニールハウスに「苗床」をつくって、そこで苗をシッカリ育てるから、苗の「出来、不出来」はほとんど発生しない。

Nostalgia Travel
しかし当時は、その年の天候次第で「出来、不出来」が左右された。

Great Mother
④田植え
シロカキの済んだ田に苗を植え付ける。田植えは一定期間に一斉に行うが、今は「田植え機」と言う便利な農機があるから二町歩(19,800hm)程度の田植えは、一週間もあれば終えてしまう。

Nostalgia Travel
しかし、当時は人海戦術であった。この作業は、水の中で一日中、腰を曲げてする重労働であった。しかも田植えは、一度始まれば休むことなく一気に済ます作業でもあったから、雨の日も、風の日もこの姿勢で作業をする。

Great Mother
ミッちゃんの家のように大農家は、期間限定で大勢の「田植え職人」を毎年雇っていた。姑の言う助っ人とは、この「田植え職人」の事である。

Nostalgia Travel
一つの「田んぼ」の一方のハジに、5~6人程度の「田植え職人」が、横一列に並んで苗を植え進んで行く。手持ちの苗がなくなると、その「田んぼ」の所々に配置してある苗のタバを取って、更に植え進んでゆく。

Great Mother
「田んぼ」の一方の先に行き着いた「田植え職人」は、また横一列になって、今来た「田んぼ」のハジにむかって植え進んで行く。

Nostalgia Travel
職人達は思い思いに、手ぬぐいなどを頬カブリして、衣服の尻をハショッテ、この作業をモクモクと繰り返すのが、当時の田植え風景だった。

Great Mother
当時は、こんな田植え風景が一ヶ月以上続いた。そして、大農家は優れた「田植え職人」を田植えの一番よいタイミングに雇い入れる事が重要な仕事であった。

Nostalgia Travel
当時、農家の田植え期は、多忙の極みであった。定かではないが「ネコの手も借りたい」の語源は田植えの忙しさから来たとも聞くほどだ。

Nostalgia Travel
⑤草取り・・・・雑草を取り除く作業。

Great Mother
⑥肥料をやる・・・・ここまでは梅雨が明けるまでの作業だ。

Nostalgia Travel
⑦水抜き・・・・田から水を抜いて稲穂だけに栄養が集中するようにする。

Great Mother
⑧稲刈り

Nostalgia Travel
私が物心が付いた程度の幼い頃。「ご馳走様」とチャブ台に置いた私の茶碗の中を見て、母が「タカシご飯をキレイに食べなさい」と言って私の茶碗にサユを注いだ。

Great Mother
母は「お米はね。お百姓さんが、なが~い間、大変な苦労をして一生懸命作ってくれたものなのよ。残したりしたらバチがあたるよ」と言いながら、私の茶碗をとって注いだサユと箸で茶碗にへばり付いた、ノリのような小さなご飯粒までを、茶碗の底に洗い寄せて行った。そう母の作業は茶碗の中をサユで洗っていた。

Nostalgia Travel
そして、それを私に差し出して「『もったいない』からキレイに食べなさい」と言った。

Great Mother
私「カーちゃん。これでいい?」。母「うん。いいよ」と優しくほほえんだ。私は母のほほえみが嬉しかったそして『もったいな』の言葉が私の心に刻まれた。

Nostalgia Travel
これも定かでないが日本の『もったいない』の語源は多分、稲作の重労働から生まれた「お米」への畏敬が由来ではないか!

My site is the original Japanese vanishing landscape and the rich Japanese sentiment can stroll through the site

2008年5月12日月曜日

母の手技、マッサージでついに母乳が出た。

Nostalgia Travel
母はミッちゃんの左胸に再度、ガラスのラッパをあてながら、ゴムボールを握り始める「もう少し、放って置いたら乳腺炎になるところだったね」。ミッちゃん「乳腺炎!」

Great Mother
母「お乳が通ってくるクダを『乳腺』と言うだけど、そこに古いお乳が残って『乳腺』が炎症を起こすんだよ。そうするとスゴク痛いし、ひどくなると抗生物質と言う薬を飲むから、赤ちゃんにオッパイもあげれなくなるんだよ」ミッちゃん「えー。怖いですね」

Nostalgia Travel
母「こっちのオッパイの方が右より張るでしょ?」。ミッちゃん「はい」
母「赤ちゃんにオッパイあげるときは、こっちのオッパイから先にあげるようにしたらいいよ」。
ミッちゃん「えっ? はい」。

Great Mother
母「こっちのオッパイの方が出が良いのは、分かるよね?」。ミッちゃん「はい」
母「だからこっちのオッパイの方が乳腺にオッパイが残り易いし、乳腺炎に成り易いことなのよ」。
ミッちゃん「そうなんですか」

Nostalgia Travel
母「赤ちゃんはお腹がすいている最初、吸う力が強いけど、お腹がクチクなると吸う力がダンダン弱くなるの、そうすると乳腺の中にお乳が残りやすくなるのよ。分かる?」
ミッちゃん「あっ、はい。分かりました」

Great Mother
母「赤ちゃん。生後2ヶ月だったね」。ミッちゃん「はい。2ヶ月に入ったところです」
母「生まれたての赤ちゃんはオッパイを吸う力が弱いから、お乳が乳腺に残りやすいのよ」。
ミッちゃん「乳腺炎に成り易いんですね?」

Nostalgia Travel
母「そうよ。だからお風呂に入って良く暖まったら、オッパイをマッサージしながら搾乳する必要があるのよ」
ミッちゃん「サクニュウ?」

Great Mother
母「搾乳と言うのは、お乳を絞り取って捨てることなの、これはトシオさん(ミッちゃんの夫)との共同作業なのよ」

My site is the original Japanese vanishing landscape and the rich Japanese sentiment can stroll through the site

2008年4月25日金曜日

母の手技、マッサージで母乳がついに出た

Nostalgia Travel
母「充分マッサージしてあるから、痛くはないと思うけど、痛かったら言ってね」。ミッちゃん「はい」
母はゴムボールを少し強く握った。吸引器(ラッパ)の中の空気が排出されて、器内はドンドン真空状態になって行くようだ。それにつれ、ミッちゃんの乳房がガラスの中に少しずつ吸い込まれて行く。

Great Mother
ミッちゃんの左胸から吸引器が、ずり落ちないように抑えていた母の左手は不要になっていた。そして、ミッちゃんの「左乳房の先端」がガラスと一体になっている。

Nostalgia Travel
ミッちゃんの「乳輪のあたりから乳頭」が、吸引器のガラス越しに「網焼きしているオモチ」がフクレタようになっている。そして毛穴までが拡大して見えている。

Great Mother
母「痛くないよね」。ミッちゃん「はい」。母はゴムボールからも手をはなしてミッちゃんの胸を軽くマッサージしている。

Nostalgia Travel
すると、乳頭の一点から白い液体がにじみ出てきた。母「やっとオッパイが出てきなね」
そして、二点、三点、四点と時間の経過につれて、乳頭から「お乳」がにじみ出てくる。やがて、「お乳」のシズクがガラスの底辺をつたい始める。

Great Mother
ドンドン「お乳」がでる。ドンドン「お乳」が流れ始めた。そして、吸引器の「ボール場の空洞」の中にたまり始める。

Nostalgia Travel
姑「ミチコよかったな~」と安堵の笑顔で言う。ミッちゃんは嬉しそうに「はい!」。私と姉も妹も「カーちゃん頑張れ」の緊張がほぐれて一緒に笑顔になった。しかし母には笑顔はなかった。

Great Mother
母はゴムボールのツマミを回した。すると吸引器がミッちゃんの乳房から簡単に放れた。
母は吸引器に洗面器のお湯を入れてススギながら「もう一回ヤルよ」。
ミッちゃん「はい」。ミッちゃんの乳房に「吸引器の丸い跡」がクッキリと残っている。


My site is the original Japanese vanishing landscape and the rich Japanese sentiment can stroll through the site

2008年4月24日木曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

Nostalgia Travel
母「ミッちゃんここ痛い?」。ミッちゃん「いえ、痛くないです」。母「ここは?」。ミッちゃん「いえ」
母「だいぶ、いい感じになってきたね」

Great Mother
母「ミッちゃん、また、さっきのように座ってくれる」。ミッちゃん「はい」
母は洗面器の側にあった小さな木箱を開けた。黄色い木綿の袋から、ガラス製の小さなラッパのようなものを取り出した。

Nostalgia Travel
そのラッパの口元には、ゴルフボールよりやや大きい、ゴムボールが付いていた。その形は、ラッパと言うより手動のクラクション(警笛)に似ている。

Great Mother
初期の、本当に初期のころの原付バイクのクラクションは、ハンドルに取り付いてあった。そのクラクションは、ラッパの口元に丸いゴムボールが付いた形状で、そのゴムボールを握りツブスと警笛がなるものだった。

Great Mother
母が取り出した器具は、そのクラクションの金属部分をガラスにして小さくしたものと酷似していた。
クラクションと違うもう一点は、ラッパの開口部とゴムボールの中間に「空洞になった球状の出っ張り」があった。

Nostalgia Travel
母は洗面器のお湯に、その器具の開口部を浸して暖めた。そして、ラッパの開口部を丹念に拭き始めた。
そこにいた全員はこれから母が「一体何をするのか」息を呑んで、その行動を凝視していた。

Great Mother
そして母「ミッちゃん、姿勢良くしてくれる」と言って、ミッちゃんの乳頭部をそのラッパの開口部の中に入れた。
ミッちゃん「あ、ハイ」。ミッちゃんは、母がラッパを使う意味を理解したのか、胸を突き出すように姿勢を良くした。

Nostalgia Travel
母は、左手でラッパの開口部をミッちゃんの胸に押し当てたまま、右手で茶色のゴムボール軽く握った。
ゴムボールの先端に、小さなツマミがあってそこから空気が抜けているようだった。

Great Mother
母は、また軽くゴムボールを握る。母がゴムボールを握るタビに、ミッちゃんの乳頭がガラスのラッパの中に少しづつ吸い込まれて行くのが見える。

My site is the original Japanese vanishing landscape and the rich Japanese sentiment can stroll through the site