2008年3月31日月曜日

かつぎ屋さんは乗車券二倍払って専用電車で行く

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とにかく、母と私を乗せた取手駅始発の「かつぎ屋さん」専用電車は出発した。

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今の取手始発、常磐電車が「快速」になったのは30年ほど前だ。従って、当時の取手始発、常磐電車は今の千代田線と同じで各駅停車であった。今なら取手ー上野の所要時間は50分くらいだが、当時は1時間30分位要したと思う。

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当時天王台駅は、まだなかった。取手の次は我孫子駅になるが、我孫子駅に着くと、この駅を起点にした「かつぎ屋さん」が乗車する。

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柏、松戸駅など、それぞれの主要駅に付く度に、新たな「かつぎ屋さん」が乗り込み、乗客席に乗せきれないカゴが、古新聞を引いた床に並べられる。松戸駅を出る頃に専用車両は、「かつぎ屋さん」で満員になる。

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そして新宿方面に行く者は、日暮里駅で山手線に乗り換えだが、それは今と同じだ。この日暮里で7割近い「かつぎ屋さん」が山手線に乗り換える。高田の馬場で西武線に乗り変える、母と私も日暮里駅で降りる。

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日暮里の一つ前の駅は三河島駅だが、三河島をを出ると、専用電車の「かつぎ屋さん」は、大半が降車の準備に入る。先ず座席にカゴを置いたの者が、仲間の助けを借りてカゴをかつぐ。次にカゴを床に置いた者が、仲間の助けを借りて、自分のカゴを座席に乗せ、カゴをかつぐ。

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降車駅に着いたときには全員が速やかに下車できる体勢になっている。もちろん最後尾車両だから車掌は「かつぎ屋さん」全員が、安全に降車するのを見届けてから、発車の笛を吹く。そう、当時は発車の合図は笛だった。

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当時と言えども日暮里駅までくると、さすがに大勢のサラリーマンが下車する。今のように階段を登るエスカレーターやエレベーターがない時代だから、上客は一斉に階段に登るのだが「かつぎ屋さん」の車両は最後尾だら、当然階段を上るのは最後になる。

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「かつぎ屋さん」が頭上高く積み上げられたカゴを背負い、両手で15Kg程度の「手さげカゴ」を持って歩く姿は、一時代前のロボットのように身体をキシマセながら「ゆっくり歩く」のによく似ている。

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階段を登る時は、足下に注意深くなる。重量の移動を充分に確認しながらの歩行になるから、更にゆっくりになる。そして、前の者がコケタ時、巻き添えを食わないように4~5段の間隔を開けて、次の者が登る。

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2008年3月29日土曜日

母「かつぎ屋さんの商圏」 10

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母の商圏は西武線の(「高田の馬場」発、「所沢方面」)沿線に有った。当時、父の妹夫婦が沼袋駅周辺に住んでいた関係からと思うが、沼袋、野方、鷺宮駅に集中していた。

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特に上客は野方、鷺宮駅に集中していた。野方駅商店街には、商店街の有職者の奥さんが、母と同じ富山県出身であったことから野方商店街には、良いお得意様が沢山いた。

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両親に先立たれた「我が家」大家」の長男は中学一年から、長女は小学校4年から私達と一緒に、母に育てられた。

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かなり先になるが、その長女「典子(仮名)姉さん」が就職難で困っている時、母のツテにより、この商店街の建築会社の社長宅に、女中に入る事になる。

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鷺宮には、母のお客では最大の上客がいた。母は農家のカミサンの「かつぎ屋さん」とは違っていた。夫はレッキとした江戸っ子で、結婚当初、墨田区に住んでいた事もあり、東京や東京人に物怖じしなかった。加えて比較的、商才が有ったように思う。

Great Motherそんな母は金回りの良さそうな家に、今で言う飛び込み営業を掛けて客層を上げる努力をしていた。それが野方の商店街であり鷺宮の佐藤さん(仮名)だった。

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この佐藤さんのご主人は、戦時中父の部下だった。佐藤さんについて、父はほとんど印象にない部下の一人だったようだ。
軍隊には、特有の「いじめ」が有ったが、父はそれを「いい加減に勘弁してやれ」と止めることが、たびたび有ったそうだ。そんな父に佐藤さんは、何度か救われた事があって、父を良く覚えていた。

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母は佐藤さん宅に飛び込み営業に入った時、終戦直後の事だから当然のようにお互いが、お互いの軍歴を話す。その中で佐藤さんは、偶然母が元上官の女房であることを知る事になるが、以来一族上げて母の最上得意になった。

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佐藤さんは当時、鷺宮の大地主で「住まいの屋敷」だけでも1000坪(3,300へーべ)くらい有り、かなりの資産家でもあり、他のお客とは格段の差があった。
従って、母のお客の中でも最上得意だった。母も父の元部下であったことから、商品を厳選して販売していたようだ。

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私も何度か、母に連れて行かれたが、別荘のように緑豊かな屋敷内に親族の家が3軒ほど建っていた。私が佐藤さん宅に、最後に行ったのは22~23才の時だった。
その頃には、母はヒザを痛め(かつぎ屋さんの大半は若くしてヒザの軟骨がすり減って歩行障害になる)て、既に「かつぎ屋さん」を廃業して、生命保険の外務員をしていた。

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しかしそんな母が、「タカシ、佐藤さんからコシヒカリ2俵(120Kg)注文が来てるけど乗用車で運んでくれんかい」と頼まれたことが2~3度あった。従って佐藤さんは、20年来の母の上得意だった事になる。

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その鷺宮駅に行くには、今なら取手駅から1時間20分だが、当時は接続の悪さも有って2時間以上かかったように思う。

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2008年3月28日金曜日

駅前を活気つけた「かつぎ屋さん専用市場」

Nostalgia Travel専用市場には、駅近くの業者などが入り乱れて総勢50人ぐらいの人だかりになる。サバイバル時代から少し落ち着きを取りも出し掛けた昭和27~28年(B・C1952~1953年)当時、駅に急ぐサラリーマンの姿もあったが、朝の駅周辺は「かつぎ屋さん」のエレルギィーが活気づけていた。

Great Mother30分から1時間程度、専用市場の長いすの上で荷作りの準備をする者、オニギリを「ほおばり」ながら朝食を済ませる者、近くの食堂に急ぐ者など様々だが、この長いすはカゴを背負うには「ちょうど良い高さ」になっている。

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食堂で朝食を済ませる者は、長いすに荷作りの終えたカゴを置いたままにして食事に行くが、その間は男の見張り役が二人ほどいるだけで市場には一瞬静寂が訪れる。

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この当時になると「かつぎ屋さん」ビジネスも有る程度認知され始めたと思える(もちろん統制品の米類を除いての事だ)。この専用市場の敷地は国鉄(今のJR)の所有地であったことは当然であったし、国鉄は乗車券を2人分取ることで(往路のみ)「かつぎ屋さん」専用電車を出していた。

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専用電車は朝だけだ。推測だが、その時間帯は午前8~10時の間で、1時間に一本程度の「かつぎ屋さん」専用電車があったようだ。

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専用電車といっても、最後尾に「かつぎ屋さん」専用車両が一両付けられていた列車だ。従って「かつぎ屋さん」の朝の作業の全ては、専用列車の出発時間に合わせたものだった。

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専用車両の中は「かつぎ屋さん」だけだが、座席に座っている者は誰もいない。その代わり座席には荷作りされたカゴがズラット並んでいた。座席に置かれたカゴの高さは、身長の個人差はあるが肩ぐらいの高さである。目的駅についてこのカゴをかつぐには打って付けだった。

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そして自分のカゴが落ちないように、それぞれの持ち主が、窓の方を向いてカゴを抑えたり、背中で支えたりしている。

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ここは「かつぎ屋さん」専用空間だから商品の善し悪しや、商品の融通をし合ったり、客種のことを話す者や、食事をする者、タバコを吸う者など「自由闊達」で賑やかだ。

Great Mother私は、この時並んでいるカゴを見比べて母の荷物が、いつもの半分くらいの大きさである事に気がついた。しかし、そのことを不思議に思うにはまだ幼かった。

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2008年3月27日木曜日

大荷物を背負う「かつぎ屋さん」はロボットの様に歩く。

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満員のバスが国鉄(今のJR)取手駅に着いたのは午前7時頃だった。そして、「かつぎ屋さん」の面々は駅前の専用市場に集結する。

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専用市場と言っても、使用済みの線路の枕木で作った、背もたれのない長椅子が10~15コ位、並べられただけの150坪程度の空き地だ。露天なので当然、風雨をしのぐすべがない。

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雨の日「かつぎ屋さん」は、特別の事がない限り、休業となるのは、この市場が露天である事も原因の一つだ。とにかくこの市場に着いた母達「かつぎ屋さん」は、自分の商品を仲間に売ったり、買ったりする。

Great Motherサバイバル時代も過渡期に入ると、「かつぎ屋さん」から、オーダを受けていた業者が、自転車やバイクなどで運び込む者もいた。野菜、米、モチ、モチ米、タマゴ、鶏肉、河魚の佃煮、大福などなど食料品が取引の対象だ。

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駅の近くにある「千代屋」と言う八百屋は、「かつぎ屋さん」専用業者で、いつも盛況だった。その八百屋は「かつぎ屋さん」が駅に着始める午前6時頃から正午まで、「かつぎ屋さん」が帰り始める午後4時から7時までが営業時間だった。

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「かつぎ屋さん」のカゴはガッシリとした竹製で、タテ、ヨコ45センチで高さが80センチぐらいだが、その荷作りが巧みでないと途中で荷崩れして、大けがをする事になる。

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当然、重い米や、上からの加重に耐えられる物などは、カゴの一番下になる。そして野菜は一番上だが、途中で鮮度が落ちないように、ぬれた古新聞や風呂敷でクルンダリする。新聞が濡れすぎていると、下の米の鮮度に影響するから、そこもノウハウだ。

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タマゴなどは10個ずつ古新聞でクルンデ、篠竹製の「手さげカゴ」に入れて運ぶ。この手さげカゴはタマゴなら100個ぐらいはいる大きさだ。

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この身体のバランスを考えて両手に、同じ重さ(7~8Kgx2)の「手さげカゴ」を持つ、これも重要なノウハウの一つだ。
その総重量は目測だが当時の母の体重(55Kg前後)は軽くオーバーすることは間違いない。

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荷物が満載になった「かつぎ屋さん」の歩く姿は、頭上高く積まれたカゴを前かがみで背負い、両手に「手さげカゴ」をもってノシノシとロボットのように歩く。
この姿で、息を切らしながら階段を上る母の姿は、終生脳裏を離れることはない。

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当時、取手駅を起点にしている母のような「かつぎ屋さん」は、隆盛の時で200人ぐらいいたのではないかと思う。その8~9割はオバサン部隊だ。

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2008年3月26日水曜日

かつぎ屋さんはヤミ商人?

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弟が生まれる前(BC1955年)は、終戦後のサバイバル時代だが、この当時は「かつぎ屋さん」ビジネスで最も、需要が有ったのは主食の米だった。しかし、米の販売は厳しい統制下にあった。

Great Mother母達「かつぎ屋さん」は、警察官や鉄道公安官の査察で米を運んでいることが分かれば、米以外の全商品も没収された。母達が米の販売をすると事は「ヤミ米」をあつう事になる。


Great Motherかつぎ屋さんは、統制商品以外の生鮮食品などを販売できる登録証があった。しかし、米を運んでいる事が分かれば、その登録証さえ没収さっれる事もあった。それは、死活問題たった。

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母は、かつぎ屋さんを初めて間のなく私を連れて、行くようになった。
私が身体が小さい割に力があり、乗車券なしで、荷物運びの手伝いをさせられる事だけがその理由ではなかった。

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「かつぎ屋さん」は電車、バス料金は二人分払うようだった。荷物が一人分の場所と重量があったからなのだろう。

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母と私がバスに乗ると、6~7名の「かつぎ屋さん」達は後部座席に陣取っていた。「かつぎ屋さん」は終点の当時の国鉄取手駅で降りるから、他の乗客の邪魔にならないようにの配慮でもあるが、そこは情報の交換場所でもある。

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大柄の「かつぎ屋さん」が(ボスらしい)が母に昨日、どこの駅のどのホームで査察があったか、査察官が何人いたかなどの情報を大声で教える。
母も大声でなにやら聞き返す。バスが停留場で別の「かつぎ屋さん」を乗せる度に、その話が繰り返される。

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バスは舗装されていない砂利道を前後左右に激しく揺れながら走る。途中窓から野菜、タマゴなどが積み込まれたりする。

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駅に着くまで、バスの中はとにかく賑やかだ。昨日の客とのヤリトリを話すもの、商品のブツブツ交換をするもの、冗談をいって笑うもの。
そして、駅に着く頃には7~8割は「かつぎ屋さん」の乗客でしめられている。

Great Motherバスは約15キロの道のりを、人家の軒先をカスメながら、狭い道を一時間くらい掛けて走る。

2008年3月25日火曜日

かつぎ屋さんの母は四人の子持ち。

Nostalgia Travelその日、母は一時間遅れのバスで「かつぎ屋さん」の仕事に出かけた。
弟は、母が仕事から帰るまでの間、山田のジー宅に預けられていた。私は妹(小学校一年)と障害者の姉に食事を与えて、学校へ急ぐ。

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母の帰宅は、早いときで午後7時、遅いと8時頃になる。母の帰宅が8時の時は私達子供だけで食事を済ませる。

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母は帰宅して、一人で食事をする。弟は、母のヒザの上でお乳をまさぐっている。妹より5才年下の弟は、母が帰るといつも、母のヒザとお乳を独占して一日の寂しさを紛らわしている。

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私と妹は母のカゴの中に売れ残りの、お土産がないか、探すのが日課になっている。母は当時、あまり手に入らない大福を時折、私達のお土産に持ち帰って来ることがあった。

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大福は「白モチ」に「粒あん」か「こしあん」の大福で、その時によって「草餅の大福」の二種類の時もあった。兄弟全員が草餅大福が大好きだった。白か草餅かの争奪戦は当然、早いもの勝ちだった。

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私は、長男の特権で草餅をよくゲットした。弟は泣けばいつでも、何でも好きな物をゲットしていた。私も弟とは8才も違う弟は可愛いくて、抵抗なく譲っていた。

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従って、大抵は私と妹の争奪戦になる。可愛そうなのは障害者の姉だった。いつでも、何でも一番最後の残り物だった。

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大人になってから、母が教えてくれたが姉の分は、別に隠して置いて私達に見つからないように、与えていたそうだ。それを聞いて私は幾分「罪の意識が癒された」

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子供の成長期は本能的に、食べ物に執着するようだ。もののない時代たった当時は、子供も大人でさえそうだった。

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弟が生まれた昭和30年(B/C1955年)を境にして、日本の国情が少し明るさが見えてきた。そして、我が家でも父が職につき、母「かつぎ屋さん」との共稼ぎになって、我が家の家計に余裕を子供心にも感じられるようになった。

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時代は緩やかに戦後社会から、脱却しようとしていた。その頃から母の「かつぎ屋さん」ビジネスも社会のニーズが少しずつ変わってきていた。

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物さえ有れば何でも売れた時代から、産地直送の新鮮で美味しい食品を提供する、営業部隊に変貌しつつあった。

2008年3月24日月曜日

ミゾに落ちた荷車を、テコで簡単に上げるジー。

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私は、全速力で走って、山田のジーの家に飛び込んだ。「お早う」の挨拶もなしに言った。

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「ジー、かあちゃんが助けてくれって」。ジーは起きていたが、まだ眠そうだった。しかし、私の様子から、状況が分かったのか、ジー「荷車がミゾにハマッタのか?」と言うと、一瞬で目に生気みなぎった。

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私「うん」。ジーは、ハマッタ場所が想像できたのか「大越の曲がり角だろう」。私「うん」私に質問しながらジーはもう動いていた。

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太い2メートル位の丸太と、やはり2メートル位の板を手にしていた。そして、「細目の丸太」を持つと「タカシこれを持て」と私に差し出して、「行くぞ」と言った。

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小雨は少し小降りになっていた。母はジーの顔をみてホッとした顔で「ジー朝から済まんです」。ジー「なにすぐ出してやる」と言うと。

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「太目の丸太」をミゾにハマッタいる車輪横に平行に置いた。そして、ミゾにハマッテいる車輪下の前方に板を押して食い込ませている。

Nostalgia Travel食い込ませた板は、地面と車輪に間に挟まって、30度位の角度がついたまま固定された。ジー「いいか今、俺が『テコ』でこの車輪を浮かせるから、そしたら二人でこの板を車輪の下に差し込め」

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私が持って来た「細目の丸太」はよく見るとクイだった。ジーは「細目の丸太」の尖っていた方を先にして、「太めの丸太」の上から車輪下の地面に突き刺した。

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そして、「太い丸太」を支点にして、45度ほど傾いて宙に突き出ている「細い方の丸太」の端を、ゆっくりと下に押さえつけ始めた。

Great Motherすると、ジーはそれほど力んでいるように見えないのに、荷車が浮いてきて、ミゾにハマッテ傾いていた荷車がやや平らになった。

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ジー「よし、タカシ、かあちゃん、板を下へ差し込め。もうちょいだ。そしオケー。」

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ジーが「細目の丸太」を離すと、前ほどではないが少し荷車は傾いた。車輪の下になった、板は少し角度が増して40度位になって前方が浮き上がっていた。
ジーは荷車の前方に周り、荷車の荷台と引き手に入って、荷車を引っ張る体勢に入った。

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ジー「二人は後ろから押せ。いいか。セー・ノッで、行くぞ。」

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ジー「いくぞ 。セー・ノッッッ」三人が一斉に力を入れる。車輪が「ギシッ」と音を立てると、板の上をユックリと登り始めて、車輪がはミゾから出た瞬間、40度に持ち上がっている板が「パタン」と地面に落ちた。片輪は板の上に有って荷車は、アッケナイほど簡単にミゾから出ていた。

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その間10分間位だ。母と私があんなに必死でできなかったのに、あまりに簡単にミゾから出られたのに私は驚いた。

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そして、その時、初めて「テコ」を見た。そして、それ以来「ジー」を尊敬した。

2008年3月22日土曜日

小雨のヌカルミで米を積んだ荷車がミゾにハマッタッて動かない。

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「かつぎ屋さん」の母の朝は早い、多分4~4時30分には起きて朝食の準備を始める。
ガスレンジも電気釜もない時代の炊事は、山や林から集めて置いた、タキギに火を付ける事からはじめる。
その間、炊事場から離れることはできない。我が家の台所はヒサシだが屋根と壁はワラで出来ていた。それに続く家もカヤと障子紙と木で出来たていたから、火もと管理を誤れば簡単に火事になるからだ。

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炊事が終わったら、近くの農家を2~3軒回って数種類の野菜、米、モチ、タマゴなどを仕入れに行くが、6時頃出発のバスに乗らなければならない。

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母は自転車に乗れなかったから、一軒一軒歩いて集荷した。荷物の多いときは、大家から木製の荷車を借りて仕入れに行った。
この荷車は、タイヤも荷台も木製だ。牛や馬に引かせるように設計されているから、長くて大きく扱いニックイ代物だった。

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物資のない時代だから、ゴム製のタイヤで鉄パイプで軽く扱いやすい、リヤカーが出てきたのは、多分弟が生まれた昭和30年(B.C1955年)頃からだと思う。更に、リヤカーが装着できる自転車が普及するのはその2~3年あとだと思う。

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その上、当時の道路事情は国道でさえ舗装されていない状態だから、我が家が済んでいた地域の道路は、あちこちに陥没のある砂利石を敷いた道路だが、あぜ道に近い。
いや、砂利石が引いてあれば良い方で、チョット脇道に入ると雨の翌日などは、ヌカルミになってしまう。そこに素足で脚を踏み入れれば、くるぶしの上まで埋もれてしまうような、土を踏み固めただけの完全なあぜ道だ。

Great Motherある日、少し早く起こされて、母の「仕入れの手伝い」をしたことがあるが、その日は前日の雨で仕入れの道すがらには、アチコチに水たまりのミゾがあった。

Nostalgia Mother当然、そのミゾは荷車が何度もはまった後で、ミゾからは砂利石がはじき飛ばされた大きなワダチだから、一端はまったら簡単には出らない。

米を積んでだ帰りそれを避けながら来たのだが、運悪く一番大きなミゾにはまってしまった。当時、弟が生まれて1年位足っていて私は小学校4年生だった。

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相撲を取ると近所の同級生ではナンバーワンの私だったから、少しは助けになると思い荷台の後ろから押すの
だが、どうにも動かない。その内小雨が降り始めた。

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母の顔を見ると鬼のように真っ赤な顔をして荷車を押したり、引いたりしていた。雨にぬらすと米が売り物のにならないからだろう。もちろんシートはかぶせてあるが、当時シートは防水性が乏しいものだった。

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その頃父は、また住み込みで働きに出ていて不在だった。タカシ「山田のジー呼んでこい」と母は叫んだ。私はこの近在で一番の力持ち(少し酒癖が悪いけど普段は優しい)の「山田のジー」を呼びに走った。
「山田のジー」は弟が「ジー」と呼んで可愛がられていた以前話した「貧乏連合!」のお隣さんだ。

2008年3月21日金曜日

大荷物を背負う母と、赤ん坊の弟をオンブして並んで歩く。

Nostalgia Travel母は弟を出産して、半年もしない内から「かつぎ屋さん」ビジネスに出かけた。「かつぎ屋さん」は12月の年の暮れは特に忙しい。弟が生まれた月が8月でその年の12月は、母が出産して4ヶ月程度だが、東京のお客さんから注文がかなり有ったようだ。

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それは、我が家に取ってありがたい事だった。父も母のビジネスを手伝ったが、ほんのタマニだった。理由は良くは分からないが、母のお客さんが東京の親戚やその縁者だったり、父の軍隊時代の部下だったりのためのようだった。

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いずれにしても、母はまだ盛んに母乳を欲しがる、弟を抱きかかえながら「かつぎ屋さん」に出かけた。私も12月になると、日曜日や冬休みになるといつものように母の仕事を手伝った。

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しかし、今回は手伝う内容が今までとかなり違っていた。私の役割は荷物を運ぶことではなくて、弟をオンブする役割だった。そして、母は仕事の合間を見て、私の背中から弟をほどき、抱きかかえて母乳を与えた。

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当時はみんなが、必死で生きた時代で有ったが、それでも「かつぎ屋」のオバサンが「子供に赤ん坊をオンブさせ」大きな荷物を背負って、親子で並んで歩いていると、かなり奇異に見えたようだ。

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12月はオモチや、餅米の注文が多くかなり、カゴの荷物はいつもの月よりかなり重い。母が一番大変なのは駅のホームから、ホームに移る階段の上り下り。そして、最寄りの駅から第一軒目のお客さんの家にたどり着くまでの道のりだ。

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母は、頭上高く積み上げられた荷物を背負い、卵などが入った手さげカゴを両手にもって、前屈みになって息を切らして、足下を確かめるように歩く。転んだら最後、大ケガをする事は必死だ。「人生は重い荷物を背負って坂道を行くがごとし」徳川家康の格言、そのものの姿だった。

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弟は、健康優良児でかなり大きな赤ん坊たった。弟の体重は、当時6~7キログラムぐらいあったと思う。比較的に力が有った私だが、まだ小学校三年生の子供の力は知れている。ただ、弟の重さに耐えることしか、母の力にはなれなった。

2008年3月20日木曜日

Nostalgia Travel and Great Mother 2

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母の出産で「かつぎ屋さん」ビジネスが滞っているところに脳性麻痺の姉11才、私8才(小学校3年)、妹5才、弟0才に父母と6人の家族構成で、収入源がない状態が一年位続いたら、家計がひっ迫するのは当然のことだった。

Great Mother
これは想像ですが多分、父は妹を叔父(自分の弟)に養女に出すことに、気持ちがかなり揺れたと思う。ある日私が学校から帰ると家の中から母の大声がした。「どんなに苦しくたって家族で暮らすのが一番、ミエ子はやらない」。 父「・・・・・・」。

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結局、父は母の強い意見に従った。その後母は、楽しいときも、辛いときも「家族みんなで暮らすのが一番!」をまるで自分に言い聞かせるように、ツブヤクのを、私達兄弟は聞かされた。私はその言葉を言うときの母を愛した。そして、今でも誇りに思う。

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当時、赤ん坊は母乳で育てるのが普通だった。赤ん坊が大きくなって母乳が足りなくなると、足りない分を人口ミルクで補うのが普通だったようだ。幸い母は母乳が豊富にでた。それだけ家計が助かる訳だ。

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母は元来あまり健康ではなかったようだ。第一子の姉と、その年子の姉は生まれて間もなく死んでいるが、その原因は母の健康状態の影響のように私は聞いている。

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しかし、弟の出産前後は過去にないほど、母は健康だった。従って弟は兄弟で一番の元気者だ。今、思うと過酷な「かつぎ屋さん」ビジネスで、母の身体が鍛えられたのではないかと思う。

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自分の体重の2倍ほどの荷物(食品)を背負って「駅の階段(当時はエスカレーターも、エレベーターもない)を上り下りする事は、男でも出来ない」と当時の男どもがいっているのを聞いたことがある。
その理由を男どもは「女性特有のおしりの体型がカゴを安定させて、あの大荷物を担いで階段を登れる」と言い訳していた。

Great Mother
私は、身体が小さい割に力が有ったので、小学校2年生位まで夏休みなど、休みになると母のかつぎ屋さんを手伝った。駅の改札で駅員に「坊や幾つと聞かれると」。私は「5才」と母に言い聞かされた通り答えた(小学校前は無賃乗車できる)

Great Motherそんなことから母が自分の体重の2倍ぐらい有るのではないかと思える、頭上高く積み上げられたカゴを背負って階段を上り下りする姿を何度も見ていた。私は、いつも母がコケないかと心配して見ていた。

2008年3月19日水曜日

Nostalgia Travel and Great Mother 1

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弟は1955年生まれで父44才、母36才の子供だった。今で言う高齢出産であったが、当時としては珍しいことではなかった。

Great Mother
この地域の人々の間では、よく「40才過ぎての子供は可愛い」と言われていた。それは20才前後の大人に成り切れない時の子供より、大人として成熟してからの子供では精神的な余裕がそうさせるのだろうと思う。
そんなこともあってか、父は弟がひとしお可愛いようだった。

Nostalgia Travel父母の世代の農村地域では、嫁もその子供も農作業の働き手として重要であった。まだ、機械化されていなかった、当時の農作業は多くの人手を要していたからだ。

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農村の娘は、初潮が有れば嫁にゆき多くの子供を産んだ。事実母の兄弟は10人ほどいて、母の一番上の姉と母は20才ぐらいの年の差があった。

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避妊具があまり普及していなく、避妊意識も散漫な時代でもあった。この時代「嫁の子供より、姑の子供の方が年下」と言う現象も普通にあった。だから「高齢出産」と言う意識も言葉もなかった。

Great Motherしかし、農業規模が小さく子供が多すぎると、生活が立ちゆかなくなり、余裕のある親戚に養子、養女に出されることも珍しいことではなかった。いわゆる口減らしだ。

父母の時代に、さらに貧しい家庭の子供は、金銭の売買対象であった。男の子は都会の大きな商家に下働きの小僧として、女の子は遊郭に売られていった。

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当時、我が家の生計を支えていた母の「かつぎ屋さん」ビジネスが、弟の出産でしばらく出来ない状態が続ていた。その結果、我が家の家計はかなりひっ迫していたようだ。
病から癒えた父だが、再就職するにも、44才という高齢者の働き口はそう簡単に見つかる時代ではなかった。

Great Motherそんな日々の中で横浜の叔父(父の弟)から「妹を養女にくれないか」との話があった。叔父の家には私より8才年上の男の子が、もう一人子供が欲しいと思っていた。しかし、叔母が病弱で今後子供が望めない事から、妹なら養女に欲しいとの話が有ったようだ。

2008年3月18日火曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation10

Nostalgia Travel
バス路線がようやく、我が家の近くにもできて、母の「かつぎ屋さん」のビジネスが、少しずつ増加していったのは、妹が3~4才位で、私が6~7才位の時からだった。

Impressible Generation
母は私達を山田さんや大家兄弟に頼んで、商売にでかけた。私は子供心に少しずつかつぎ屋さんのプロとして自信をつけて行く母の表情に気づいた記憶がある。

Nostalgia Travel
そんな私達の生活の中で、ある日母から「父ちゃんが病気になって帰ってくる」と聞かされた。そして帰ってきた父は毎日家にいて、主婦のように炊事、洗濯をして、私達子供の世話をした。そして母が毎日かつぎ屋さんビジネスででかけるようになった。

Impressible Generation
ある日父が、庭に出て私達子供に隠すように薬を飲んでいるのを見てしまった。我が家は6畳一間に、台所の土間だけだから、父はいつも外に出て薬を飲んでいた。それは、私達子供に「なんの薬なの?」と聞かれるのを恐れるようだった。
私は、直感的に私達、子供には言いがたい事情の病気なんだな~と感じた。そして、父の病気が何であったか推測できたのは異性を知ったあとだった。

Nostalgia Travelそんな、家族の生活が一年くらい続いたと思うある夜、夏でもない冬でもない多分初夏の頃、風呂場(その頃には、我が家にも風呂があった)から、父が台所にいる母に大きな声でなにやら話している声が、6畳まで浅い眠りの私の耳に聞こえた。

Impressible Generation父の言っている言葉の意味は、記憶にないが、父の言葉に応えて「いやらしいね!」と言葉とは裏腹に、華やいで答える母の声は、ハッキリと覚えている。

Nostalgia Travel
そんな日から、半年ほどして、母のお腹がふくらんで行き、私達の兄弟が母のお腹にいることを知らされた。
母のお腹は日増しに大きくなった。母は食欲もおおせいで、みんなが元気な子供の誕生を心待ちにした。

Impressible Generation
ある日の朝、産婆さんが来て、6畳間に白いシーツのカーテンが仕切られた。子供は全員、家から出された。庭で出されてその時を待つ私達は、苦しそうな母の声を心配していたが、やがて「オギャー」となく赤ん坊の大きな声が聞こえた。

対面した赤ん坊は、4キログラムもある元気な男の子だった。母はお風呂上がりのようなすがすがしい顔で、嬉しそうに弟を抱いていた。
私は、その時の弟の顔は覚えていないが、その時の母は、優し時の母の顔で、私は何か不思議な出来事のように母の顔をみつめ「母ちゃんきれいだな~」と思った記憶がある。

Nostalgia Travel
弟が生まれたのは、父の誕生月と同じ8月だった。父は8月1日で弟は8月2日だった。その時、私は小学校三年生だった。

2008年3月16日日曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 9

Nostalgia Travel
私が小学校に入学した頃から、この農村地域にも自転車、バス路線(木炭車ではない)などがの移動手段や、水道のインフラが整備され始め、テレビ(モノクロ)も徐々に普及し始めた。

Nostalgia Car
私が初めて原動機付自転車(バイク)を見たのは、小学校2~3年生だったと思う。この当時の原付自転車は文字道理のものだった。少し大きめの自転車の後輪部分に原動機(ガソリンエンジン)が付いているものだった。

Nostalgia Travel今で言えば、バイクよりもモーター付き自転車に近いものだった。大きな音を立てて走るがアスファルト舗装の道路は、この地域で皆無な時代だから、最大速度はせいぜい40Km位と思う。

Nostalgia Car
エンジンの始動はセル始動の技術が完成されていない時代で、アクセルを開放しながら、クランク・フットバーをキックしてエンジン始動していた。

Nostalgia Car
自動車エンジンには詳しくないが、クランクを始動させるバッテリーのパワーがないから、ピストンにつながるクランク・フットバーをキックして、ピストンのガソリン吸入始動を助けたのだろう。

Nostalgia Car
自動車も最初に見たのは我が家の近くで、殺人事件が起きた時だった。自動車と言っても三輪自動車で屋根は布製のホロが被っていて、ドアはなくて、ハンドルは丸ハンドルではなく、自転車のハンドルと同じ形状だった。

Nostalgia Travel
この事件の被害者は、三輪車の運転中に後部荷台に載っていた犯人に、ホロ屋根の上からナタを振り下ろされて、殺された事件だった。

Nostalgia Car
この三輪自動車もセルがない。エンジン始動はキック式だった。それでも、その以前の車はクランク手動式だから技術革新していた。

Nostalgia Carクランク手動式というのは、バンパーの中央に小さなアナが開いていて、そのあなに鉄のクランク棒を1mほど差し込んで、バンパーから出ている、そのクランク棒のハジを両手で持って、思い切り回転させてエンジンを始動させる方式だ。

Nostalgia Travel
今の時代では考えられない程、旧式なバイクや自動車だったが、それでも内燃式エンジン車が普及し始める事で、遅まきながら我が家の近くにもバス路線ができた。

Nostalgia Travel
このバス路線ができたことで、母のかつぎ屋さんの仕事の頻度が格段に増えた。そして、我が家の家計も少しずつ明るさが見えてきた。

2008年3月15日土曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 8

父はMeiji Generation year43(B.C1911)生まれで、母はTaishou Generation year7(B.C1919)生まれだった。従って二人とも激動のSyouwa Generationを生き抜いた夫婦だった。

私は父36才、母28才の時に生まれた、Syouwa Generation year22(B.C1947)生まれの戦後育ちだ。昭和の激動を知らない世代だが、激動の片鱗を記憶しいる。

その記憶を頼りに、Nostalgia Travelを続けよう。終戦直後の移動手段はもっぱら、徒歩が圧倒的に多かった。当時の人は、一日に10Km位歩くのは当たり前だった。

Nostalgia Bicycle
我が家があった地域にはバス路線がなかったし、この地域で自転車が普及し始めたのも終戦後7~8年(1952~3年)位してからだから、歩く以外に方法がなかった。

Nostalgia Monochrome Movie
小学校の遠足はまさしく遠足で、徒歩だった。近くに竜ヶ崎市と言う市街地あって「大正座」と言う映画館もあった。小学校の行事に映画鑑賞があり、大正座に数回言った記憶があるが、いも徒歩だった。

Nostalgia Car
その大正座の客席は「枡席だった」(座敷に木の柵で仕切られた席で10人位で座る)。この竜ヶ崎にでると、バスもタクシーも走っていたが、煙突がついていて黒い煙を上げながら走る木炭車だった。

Nostalgia Taxe Fare
東京に親戚が多い関係で、我が家はこの地域の人たちから比較すると、東京に出かけることが多かったと思うが、帰りはタクシー運賃が高くていつも徒歩だった。

Nostalgia Train is engine
当時の鉄道を走っているのはモッパラSL(蒸気機関車)だった。戦争中は鉄製の物はほとんど溶かして戦艦になった影響で、鉄道を走る機関車も客車も不足していて、今のラッシュなど比較にならないほどの混雑だった。

Nostalgia Train is Gold Rush
スシ詰め、どころか屋根に乗ったり、ドアがないデッキの手すりに何人もつかまって乗っていた。子供だった私は、何度も窓から乗せられた記憶がある。

Nostalgia Trein is Gangerまさしく命がけだった。デッキや屋根から振り落とされて死んだり、大けがをする乗客がいたが、当時の乗客は列車に乗る時は、そんなことは皆覚悟の上だった。

しかし、これも戦後を生き抜こうとする、民衆のエネルギィーだった。
World War after of Generation Japanese Power

2008年3月14日金曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 7

Nostalgia Travel母は一度だけ、父が住み込みで働いていた職場に、私達兄弟3人をつれて行った事がある。多分、姉が7才、私が5才、妹は2才位だったと思う。Syouwa Generation year52の頃だ。

私の記憶では、父が案内してくれた場所は、2段ベットが5~6個並んだ薄暗い部屋だった。座る場所もなく、母と父がなにやら話していたが、一度父が中座した。

その間、母は父のベットらしき場所に、女物のベージュに、朱色が鮮やかなジャンパー(母好みではない)を見つけて「こんなものを買ったとは一言も聞いていないけど、一体誰にくれるものだ・・・・」と怒りに満ちた語気を、吐いたのを覚えている。Nostalgia Travel父が戻ると、母は「一体これは誰の?」。父「おまえに買ったんだよ!」。母「こんな派手なの私着ないわよ。」

そんなやいりの後、父の友人らしき男が入ってきて「田口、タバコくれ!」と言い。父は当然のように「お~。」と言ってタバコを差し出す。
「女房だ!」と母をその男に紹介した。母、急に笑顔になって「いつもお世話になります」。男は「あ・・・奥さん。いつもこんな感じでお世話になってるは、私の方です。」と笑いながら言った。

その日は、その近くのNostalgia Trabel and Syowa Generatio Hotelに泊まった。今で言うモーテルのような場所に、宿泊した記憶がある。家族全員で風呂に入って、ハシャイダ自分を覚えている。

しかし、その後の家路に向かう道のりは、過酷だった。Nostalgia Travel Road
当時は、我が家ある地域にはバス路線もなかった。一番近い駅から歩くのだが、最も近い駅でも約5Kmある。
母は姉をオンブして、妹を抱いて、私をなだめすかしながら5Kmの道のりを歩いた。
母が私達を、大家や山田さんに預けずに、家族総出で、父に会いに行くにはただならぬ、決意を持っての行動だったと思う。

この道は、その後何度か歩くことになる。今はアスファルトに覆われているが、この駅からのTravelの道すがらには、「激動のSyouwa Generation」を生き抜いた女の汗が染み込んでいる。Nostalgia Travel

2008年3月13日木曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 6

父からの仕送りが遅れると、母は近所の裕福な家や、金貸し、質屋などから生活費の手当をしていた。それでも足りないと、「かつぎ屋さん」をして日銭を稼いでいたようだ。後に、この「かつぎ屋さん」ビジネスは私達一家の家業になる。Nostalgia Travel

父親は東京生まれで、両親が結婚したばかりの一時期は、東京に住んでいた。もちろん戦前Syouwa Generationの事だ。そんな関係で、東京には父親の兄弟始め親戚が何件かあった。

その親戚達は、東京大空襲で東京が壊滅状態になり、親戚は都心から離れた地域に移り住んだが、食べ物が充分に行き渡っていなかった。

これは、うちの親戚だけに限ったことではない。空襲で、交通機関、交通システム、通信システムが破壊され、焼け野原の東京に取り残された民衆の食料を、当時の政府は確保出来なった。従って、当時は農村地域のほうが、はるかに食糧事情が良かった。Nostalgia Travel

当然、米(餅米も)、塩、砂糖などは物価の高騰を抑制するために、統制販売品になっていた(これは大戦中もだ)。統制品となれば、当然ヤミ売買が発生する。Nostalgia Food

そのヤミ売買の一端を、担ったのが「かつぎ屋さん」だ。
当時、食料品、生活雑貨(衣類、寝具、食器、洗剤など)などは東京に持ち込めば何でも、その日の内に売れた。Nostalgia Food

「かつぎ屋さん」それは、農家のおばさん達が「野菜、モチ、米など」をカゴに山のように積み上げて電車で東京に運ぶ、運び屋だ。

統制品を、その取り締まりをする警察や鉄道公安などの目を盗んで運ぶ訳だから、今の時代ならあり得ない事だが、当時は生計を立てるためなら、当然のリスクだった。Nostalgia Travel and Food
また、罪の意識など、誰一人持っていなかった。

2008年3月11日火曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 5

この様な極貧だったが、私の母親はたくましい女Nostalgia Motherだった。この土地柄に自ら積極的にとけ込んでいった。

我が家の「マデ屋」Nostalgia Homeは借家だったが、大家の男親は結核をわずらっていた。この大家の家には私より10才位上の男子と、8才位上の女子がいた。

私達が「マデ屋」Hostalgia Homeに住んでから、2年ほどでその男親が亡くなった。母は、残された二人の兄弟を。私達と同じ兄弟のように育てた。私達兄弟はその男子を「あんちゃん」と、女子を「ねーちゃん」と呼んで育った。母はこの二人を親代わりになって、就職から結婚までさせた。

我が家Nostalgia Homeよりましだが、この地域で我が家の次に、貧しい家があった。その家には、私と同じ年の男の子と、妹と同じ年の女の子がいた。

ほぼ同レベルの境遇であったからか、母親Nostalgia Motherはこの家(仮に山田さんとしよう)の夫婦と本当に親しくしていた。大家の井戸が涸れてしまったあとは(当時まだ水道が普及していなかった)、Nostalgia Yamada山田さんの井戸から「もらい水」していた。

また、我が家にはしばらくのあいだ、風呂がなかったので、山田さんや大家からの貰い風呂だった。
もう一軒もらい風呂している、家があった。仮に菊池さんと呼ぶが、この菊池さんには、我が家にも大家にも、山田さんにもないラジオがあった。Nostalgia Travel

母は、この菊池さんの家に貰い風呂するときは、いつもウキウキしていた。そして、菊池さんの「もらい風呂」の時は、ほとんど妹と姉を寝かしつけてから、私だけを連れてていった。Nostalgia Bath

もらい風呂だから、当然その家の人が全員済んでから入るのだが、風呂からでるのは多分20時頃だろうと思う。ラジオの浪曲放送が始まる。Nostalgia Radio
母は風呂上がりに、菊池さんのラジオから流れる、その浪曲を「ささやかな楽しみ」にしていた。

私だけを連れて行ったのは、妹は小さすぎて浪曲放送の間にグズッタリして。その楽しみを邪魔しそう。姉は身体が不自由なので、菊池さんと家の道のりが少しあるので、帰る途中で風邪を引かせてはいけない。などの配慮があってのことと思う。Nostalgia Small Travel

親は、子供の「嬉しい顔」を見るは嬉しものだが、子供だって親の「嬉しい顔」を見るのは楽しいものだ。当時の私は5才ぐらいだと思うが、黙って母の楽しみに付き合っていた。Notalgia Mother
その内、いつしか私も浪曲ファンになっていた。 今でも広沢利造(字は自信ないが)の「森の石松」を聞いて感動したのを覚えている。Nostalgia Rookyoku Sound

私はカラオケNostalgia Karaokeで、感情を込めすぎてしまう傾向があるのは、この時の浪曲の影響があるかも・・・・・・?

とにかく、こんな風で母はたくましかった。今思うと母はホームドラマ的で、単純で、おもしろい人間像を持っていた。

この単純さが、良くも悪くも母をたくましくしていた。これは母についての私の自慢の一つだ。人に恵まれたのか、時代が許したのかは、分からないが「母はたくましかったナー」と自慢に思う。
Nostalgia Mohter

2008年3月10日月曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation4

Nostalgia Homeマデヤの語源は、「物をかたづけること」をこの地方ではマデルという。従って「かたづける」てしまっておく物置小屋は、この地方では「マデ屋」と言った。

この地方に移り住んだのは、私が3才の時だった。生まれて一歳にもならない妹と2才年上の小児麻痺の姉と5人家族で暮らしていたが、私達家族はこの地方では浮いた存在だった。Nostalgia Travel

3才までは母親の生家がある、富山県の伏木町という港町に住んでいた。家族5人のうちで茨城生まれは姉だけだった。Nostalgia Generation

ガダルカナル島沖で父が乗船していた戦艦が沈没させられ、命からがら帰国した、父は霞ヶ浦海軍司令部勤務になった。霞ヶ浦海軍航空隊は軍歌に良く登場するが茨城県にある。戦火激しい終戦の1年前にそこで、姉は生まれた。Wer Generetion

海軍司令部は米軍にとって、日本を本土攻撃にはまず制空権を奪取する必要があった。そのため、霞ヶ浦は米軍の重点爆撃目標であった。
ある日の午後B29が飛来してこの海軍司令部を爆撃した。基地周辺に住む兵士の家族達も防空壕に避難した。しかし、防空壕は前日の雨で腰まで雨水がたまっていた。Nostalgia Travel

母は姉をオンブして一晩中その防空壕に避難していたが、生後6ヶ月の姉は身体が冷え切ってしまった。その後、姉は風邪をこじらせたのが病の始まりで、数週間高熱が続いた。物資のない時代で医者がいても処方する薬がなかった。結局、姉は一命を取り止めたが脳性小児麻痺という障害を背負って生きて行くことになる。

そんな姉を含む普段、男親がいない女所帯で、言葉も違う、極貧の我が家は、この地方では浮いた存在で「マデヤ」の屋号で呼ばれていた。Nostalgia Generation

2008年3月9日日曜日

我が家の屋号はマデヤ(物置)に住んでるからマデヤ

私の住んでいた地域は、農村地盤という土地柄もあってか、隣近所のプライバシーなどあってないようなものだった。Nostalgia Travel

特別の家庭を除いて、どこの家の間取りも2~3間に土間(農作業の作業場兼台所)があって、外部との仕切りは障子と雨戸だが、この雨戸は隙間だらけの戸板が普通だった。それだから子供を叱るお母さんの声などは、どこの家も隣近所につつぬけになっていた。Generation May Home

戦災で家を失って、移り住んだ(戦時中は、戦災をさけて地方に移り住むことを疎開と言った)茨城の我が家は、更に狭かった。物置の半分を仕切った家で、6畳一間に土間があるだけだった。Generation Small Home
我が家Generation May Homeの土間は少し、多の家とは違っていた。農作業用の土間ではなく、台所だったから極端に狭かった。そこに、両親と私と2才上の姉(脳性小児麻痺)と3才下の妹の5人で住んだ。

隣近所は農業所得だが、疎開の我が家には農地がなかった。そんな地域環境の中で、我が家だけ今で言うサラリーマン家庭だった。

父親は戦前、日本水産の捕鯨船の船乗りだったが、当時は花形職業で一航海で家が2~3軒たったとよく豪語していた。戦後もその仕事に戻りたかったようだ。Nostalgia May Father

戦中も海軍兵として船艦に乗っていたが、ガダルカナル沖で米艦隊に沈没させられた。そのとき砲弾の破片を身体に受けた影響で、酷寒の南極海洋での捕鯨船乗務は不可能となった。War Generation

しかし、船に関わる仕事を横浜方面でしていた。当時の交通事情では、通勤など不可能なので、住み込みであった。Nostalgia Travel Train

そんな事で、この地域で我が家だけは当時としては異色のサラリーマン家庭だった。そして、ひときわ貧しかったようだ。Nostalgia May Family

この農村地域には、昔この地域の名士から「氏性」を貰った関係から同性者が多い関係で今も、屋号でお互いを呼びあう。
我が家の屋号はいつしか「マデヤ(この地方では物置小屋を言う)」になっていた。そして、私達兄弟は「マデヤの子」と呼ばれていた。Nostalgia May home

2008年3月7日金曜日

ベビーブーマーのTVスターは力道山だった。

Nostalgia Generationいつの時代も、テレビの影響を一番敏感に受けるのは子供でしょう。紙芝居の画像ではイメージが貧弱だが、テレビの動画は子供のヒーロー願望に一気に火を付けた。

Nostalgia Monochrome TV
この時代、大人も強いヒーローを求めていた。終戦直後の貧しい生活と、敗戦の心の痛手に打ち勝つて生きて行かねばならなかった。その現状を支える強いヒーローが必要だった。

Nostalgia Hiro RIKIDOOZAN
そんなヒーロー願望を支えたのが、プロレスの力道山だった。彼は大相撲出身でかなり強かったようだが、脚のけがをから、プロレスに転向した。アントニオ猪木やジャンアント馬場の師匠だ。

Nostalgia Professonal Wrestling
力道山が、大きな体の米国人プロレスラーを空手チョップでなぎ倒すと、家電屋のガラス越しに見ているヒゲモジャの親父連中が、大歓声を上げて興奮した。大相撲では小さな身体で大きな力士をなぎ倒す初代若乃花がヒーローだった。Nosalgia Sumoo Hiro WAKANOHANA

Nostalgia Adult Hiro and Child Hiro
大人も子供もヒーローを一番求めていた時代だったかも知れない。戦争で、外国に一度もひれ伏したことがない日本人が、無条件降伏と言う、屈辱を味わった訳だから当然の成り行きだろう。

Nostalgia Generation
時代は厳しく、生活は貧しかったが、みんな一緒に貧しかった。テレビのヒーローにみんなで興奮して、悲劇のヒロインにみんなで涙したて、子供の成長に大人達はだれもが夢をみた。

War Generation
戦争で国は完膚無きまでに負けたけど、国民は負けっていなかったのかも知れない。軍政がとけて自由になった国民は活力を取り戻していたのかも知れない。

Nostalgia TV Hiro and Hiroine
テレビのヒーロー、ヒロインは間違いなく、その活力源になっていた。当時のテレビの普及は日本人の活力源だったことは間違いない。

2008年3月6日木曜日

ベビーブーマーのアニメスターは月光仮面、赤道鈴の助

Nostalgia Travel and Impressible Generation
昨年、「とうとう俺も還暦になったか!」と思ってその実感もない内に、もうすぐ1年になる。いわゆる団塊の世代の筆頭だ。

World War Generation
第二次世界大戦の4年間は(日本では太平洋戦争とも言うが)で男が兵隊に取られて、日本の国内から男が少なくなって子供が極端に生まれなかった。

Impressible Generation
昭和20年8月終戦になって、戦地から男が帰ってきて一気に子供が生まれた。昭和21年~24年に生まれた我々世代を団塊の世代、別名第一次ベビーブーマーと言っている。当然、この現象は、アメリカでもヨーロッパでも同じ現象で起きている。

Baby Boom Generation of economy effect
団塊の世代が小学校に入学すると一斉に、教室が足りなくなって小学校の建設ラッシュ。中学でも、高校でも、大学でも、そして卒業すれば、労働人口が一斉に増えた。結婚適齢期になれば、ブライダルマーケットが一斉に活況を呈した。そして、我々の子供は第二次ベビーブーマーと言われている。

Nosalgia Anime Hiro is TETUWAN ATOM
団塊の世代は、何かと競争意識をあおられながら生きてきた。この世代のアニメヒーローは、月光仮面、赤胴鈴の助、鉄人28号、鉄腕アトム、巨人の星、明日のジョーが時代のヒーローだった。最近では「はじめの一歩」が好きかな。

Impressible and Strong Generation
とにかく競争が激しいから、一生懸命とか、一心不乱とか、粉骨砕身など根性、根性、また根性そんな世相の中で生きてきた。

Nostalgia TV Anime Hiro GEKKOO-KAMEN
昭和30年頃(1955年)月光仮面はアニメからテレビドラマ化されたが、初めて見たときには「一体どうなっているんだこの電気紙芝居は!」と子供心(8才)に思ったのを覚えている。

Nostalgia Farm Village IBARAKI
茨城の片田舎に住んでいた私がそれまで見ていたのは、画像にもなっていない漫画か紙芝居だった。
それが、映像(もしろん白黒)になったのだから驚きだった。

Nostalgia a Picture Card Show
紙芝居のおじさんが、どんなにタクミに声色(こわいろ)を出しも、テレビに若い女性の声や動きには遠く及ばない。テレビが10所帯に2所帯ぐらいまで普及したときには、いつしか廃業になっていた。