この様な極貧だったが、私の母親はたくましい女Nostalgia Motherだった。この土地柄に自ら積極的にとけ込んでいった。
我が家の「マデ屋」Nostalgia Homeは借家だったが、大家の男親は結核をわずらっていた。この大家の家には私より10才位上の男子と、8才位上の女子がいた。
私達が「マデ屋」Hostalgia Homeに住んでから、2年ほどでその男親が亡くなった。母は、残された二人の兄弟を。私達と同じ兄弟のように育てた。私達兄弟はその男子を「あんちゃん」と、女子を「ねーちゃん」と呼んで育った。母はこの二人を親代わりになって、就職から結婚までさせた。
我が家Nostalgia Homeよりましだが、この地域で我が家の次に、貧しい家があった。その家には、私と同じ年の男の子と、妹と同じ年の女の子がいた。
ほぼ同レベルの境遇であったからか、母親Nostalgia Motherはこの家(仮に山田さんとしよう)の夫婦と本当に親しくしていた。大家の井戸が涸れてしまったあとは(当時まだ水道が普及していなかった)、Nostalgia Yamada山田さんの井戸から「もらい水」していた。
また、我が家にはしばらくのあいだ、風呂がなかったので、山田さんや大家からの貰い風呂だった。
もう一軒もらい風呂している、家があった。仮に菊池さんと呼ぶが、この菊池さんには、我が家にも大家にも、山田さんにもないラジオがあった。Nostalgia Travel
母は、この菊池さんの家に貰い風呂するときは、いつもウキウキしていた。そして、菊池さんの「もらい風呂」の時は、ほとんど妹と姉を寝かしつけてから、私だけを連れてていった。Nostalgia Bath
もらい風呂だから、当然その家の人が全員済んでから入るのだが、風呂からでるのは多分20時頃だろうと思う。ラジオの浪曲放送が始まる。Nostalgia Radio
母は風呂上がりに、菊池さんのラジオから流れる、その浪曲を「ささやかな楽しみ」にしていた。
私だけを連れて行ったのは、妹は小さすぎて浪曲放送の間にグズッタリして。その楽しみを邪魔しそう。姉は身体が不自由なので、菊池さんと家の道のりが少しあるので、帰る途中で風邪を引かせてはいけない。などの配慮があってのことと思う。Nostalgia Small Travel
親は、子供の「嬉しい顔」を見るは嬉しものだが、子供だって親の「嬉しい顔」を見るのは楽しいものだ。当時の私は5才ぐらいだと思うが、黙って母の楽しみに付き合っていた。Notalgia Mother
その内、いつしか私も浪曲ファンになっていた。 今でも広沢利造(字は自信ないが)の「森の石松」を聞いて感動したのを覚えている。Nostalgia Rookyoku Sound
私はカラオケNostalgia Karaokeで、感情を込めすぎてしまう傾向があるのは、この時の浪曲の影響があるかも・・・・・・?
とにかく、こんな風で母はたくましかった。今思うと母はホームドラマ的で、単純で、おもしろい人間像を持っていた。
この単純さが、良くも悪くも母をたくましくしていた。これは母についての私の自慢の一つだ。人に恵まれたのか、時代が許したのかは、分からないが「母はたくましかったナー」と自慢に思う。
Nostalgia Mohter
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