2008年3月9日日曜日

我が家の屋号はマデヤ(物置)に住んでるからマデヤ

私の住んでいた地域は、農村地盤という土地柄もあってか、隣近所のプライバシーなどあってないようなものだった。Nostalgia Travel

特別の家庭を除いて、どこの家の間取りも2~3間に土間(農作業の作業場兼台所)があって、外部との仕切りは障子と雨戸だが、この雨戸は隙間だらけの戸板が普通だった。それだから子供を叱るお母さんの声などは、どこの家も隣近所につつぬけになっていた。Generation May Home

戦災で家を失って、移り住んだ(戦時中は、戦災をさけて地方に移り住むことを疎開と言った)茨城の我が家は、更に狭かった。物置の半分を仕切った家で、6畳一間に土間があるだけだった。Generation Small Home
我が家Generation May Homeの土間は少し、多の家とは違っていた。農作業用の土間ではなく、台所だったから極端に狭かった。そこに、両親と私と2才上の姉(脳性小児麻痺)と3才下の妹の5人で住んだ。

隣近所は農業所得だが、疎開の我が家には農地がなかった。そんな地域環境の中で、我が家だけ今で言うサラリーマン家庭だった。

父親は戦前、日本水産の捕鯨船の船乗りだったが、当時は花形職業で一航海で家が2~3軒たったとよく豪語していた。戦後もその仕事に戻りたかったようだ。Nostalgia May Father

戦中も海軍兵として船艦に乗っていたが、ガダルカナル沖で米艦隊に沈没させられた。そのとき砲弾の破片を身体に受けた影響で、酷寒の南極海洋での捕鯨船乗務は不可能となった。War Generation

しかし、船に関わる仕事を横浜方面でしていた。当時の交通事情では、通勤など不可能なので、住み込みであった。Nostalgia Travel Train

そんな事で、この地域で我が家だけは当時としては異色のサラリーマン家庭だった。そして、ひときわ貧しかったようだ。Nostalgia May Family

この農村地域には、昔この地域の名士から「氏性」を貰った関係から同性者が多い関係で今も、屋号でお互いを呼びあう。
我が家の屋号はいつしか「マデヤ(この地方では物置小屋を言う)」になっていた。そして、私達兄弟は「マデヤの子」と呼ばれていた。Nostalgia May home

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