2008年3月13日木曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 6

父からの仕送りが遅れると、母は近所の裕福な家や、金貸し、質屋などから生活費の手当をしていた。それでも足りないと、「かつぎ屋さん」をして日銭を稼いでいたようだ。後に、この「かつぎ屋さん」ビジネスは私達一家の家業になる。Nostalgia Travel

父親は東京生まれで、両親が結婚したばかりの一時期は、東京に住んでいた。もちろん戦前Syouwa Generationの事だ。そんな関係で、東京には父親の兄弟始め親戚が何件かあった。

その親戚達は、東京大空襲で東京が壊滅状態になり、親戚は都心から離れた地域に移り住んだが、食べ物が充分に行き渡っていなかった。

これは、うちの親戚だけに限ったことではない。空襲で、交通機関、交通システム、通信システムが破壊され、焼け野原の東京に取り残された民衆の食料を、当時の政府は確保出来なった。従って、当時は農村地域のほうが、はるかに食糧事情が良かった。Nostalgia Travel

当然、米(餅米も)、塩、砂糖などは物価の高騰を抑制するために、統制販売品になっていた(これは大戦中もだ)。統制品となれば、当然ヤミ売買が発生する。Nostalgia Food

そのヤミ売買の一端を、担ったのが「かつぎ屋さん」だ。
当時、食料品、生活雑貨(衣類、寝具、食器、洗剤など)などは東京に持ち込めば何でも、その日の内に売れた。Nostalgia Food

「かつぎ屋さん」それは、農家のおばさん達が「野菜、モチ、米など」をカゴに山のように積み上げて電車で東京に運ぶ、運び屋だ。

統制品を、その取り締まりをする警察や鉄道公安などの目を盗んで運ぶ訳だから、今の時代ならあり得ない事だが、当時は生計を立てるためなら、当然のリスクだった。Nostalgia Travel and Food
また、罪の意識など、誰一人持っていなかった。

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