2008年3月15日土曜日

Nostalgia Travel and Impressible Generation 8

父はMeiji Generation year43(B.C1911)生まれで、母はTaishou Generation year7(B.C1919)生まれだった。従って二人とも激動のSyouwa Generationを生き抜いた夫婦だった。

私は父36才、母28才の時に生まれた、Syouwa Generation year22(B.C1947)生まれの戦後育ちだ。昭和の激動を知らない世代だが、激動の片鱗を記憶しいる。

その記憶を頼りに、Nostalgia Travelを続けよう。終戦直後の移動手段はもっぱら、徒歩が圧倒的に多かった。当時の人は、一日に10Km位歩くのは当たり前だった。

Nostalgia Bicycle
我が家があった地域にはバス路線がなかったし、この地域で自転車が普及し始めたのも終戦後7~8年(1952~3年)位してからだから、歩く以外に方法がなかった。

Nostalgia Monochrome Movie
小学校の遠足はまさしく遠足で、徒歩だった。近くに竜ヶ崎市と言う市街地あって「大正座」と言う映画館もあった。小学校の行事に映画鑑賞があり、大正座に数回言った記憶があるが、いも徒歩だった。

Nostalgia Car
その大正座の客席は「枡席だった」(座敷に木の柵で仕切られた席で10人位で座る)。この竜ヶ崎にでると、バスもタクシーも走っていたが、煙突がついていて黒い煙を上げながら走る木炭車だった。

Nostalgia Taxe Fare
東京に親戚が多い関係で、我が家はこの地域の人たちから比較すると、東京に出かけることが多かったと思うが、帰りはタクシー運賃が高くていつも徒歩だった。

Nostalgia Train is engine
当時の鉄道を走っているのはモッパラSL(蒸気機関車)だった。戦争中は鉄製の物はほとんど溶かして戦艦になった影響で、鉄道を走る機関車も客車も不足していて、今のラッシュなど比較にならないほどの混雑だった。

Nostalgia Train is Gold Rush
スシ詰め、どころか屋根に乗ったり、ドアがないデッキの手すりに何人もつかまって乗っていた。子供だった私は、何度も窓から乗せられた記憶がある。

Nostalgia Trein is Gangerまさしく命がけだった。デッキや屋根から振り落とされて死んだり、大けがをする乗客がいたが、当時の乗客は列車に乗る時は、そんなことは皆覚悟の上だった。

しかし、これも戦後を生き抜こうとする、民衆のエネルギィーだった。
World War after of Generation Japanese Power

0 件のコメント: