2008年4月25日金曜日

母の手技、マッサージで母乳がついに出た

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母「充分マッサージしてあるから、痛くはないと思うけど、痛かったら言ってね」。ミッちゃん「はい」
母はゴムボールを少し強く握った。吸引器(ラッパ)の中の空気が排出されて、器内はドンドン真空状態になって行くようだ。それにつれ、ミッちゃんの乳房がガラスの中に少しずつ吸い込まれて行く。

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ミッちゃんの左胸から吸引器が、ずり落ちないように抑えていた母の左手は不要になっていた。そして、ミッちゃんの「左乳房の先端」がガラスと一体になっている。

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ミッちゃんの「乳輪のあたりから乳頭」が、吸引器のガラス越しに「網焼きしているオモチ」がフクレタようになっている。そして毛穴までが拡大して見えている。

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母「痛くないよね」。ミッちゃん「はい」。母はゴムボールからも手をはなしてミッちゃんの胸を軽くマッサージしている。

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すると、乳頭の一点から白い液体がにじみ出てきた。母「やっとオッパイが出てきなね」
そして、二点、三点、四点と時間の経過につれて、乳頭から「お乳」がにじみ出てくる。やがて、「お乳」のシズクがガラスの底辺をつたい始める。

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ドンドン「お乳」がでる。ドンドン「お乳」が流れ始めた。そして、吸引器の「ボール場の空洞」の中にたまり始める。

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姑「ミチコよかったな~」と安堵の笑顔で言う。ミッちゃんは嬉しそうに「はい!」。私と姉も妹も「カーちゃん頑張れ」の緊張がほぐれて一緒に笑顔になった。しかし母には笑顔はなかった。

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母はゴムボールのツマミを回した。すると吸引器がミッちゃんの乳房から簡単に放れた。
母は吸引器に洗面器のお湯を入れてススギながら「もう一回ヤルよ」。
ミッちゃん「はい」。ミッちゃんの乳房に「吸引器の丸い跡」がクッキリと残っている。


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2008年4月24日木曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母「ミッちゃんここ痛い?」。ミッちゃん「いえ、痛くないです」。母「ここは?」。ミッちゃん「いえ」
母「だいぶ、いい感じになってきたね」

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母「ミッちゃん、また、さっきのように座ってくれる」。ミッちゃん「はい」
母は洗面器の側にあった小さな木箱を開けた。黄色い木綿の袋から、ガラス製の小さなラッパのようなものを取り出した。

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そのラッパの口元には、ゴルフボールよりやや大きい、ゴムボールが付いていた。その形は、ラッパと言うより手動のクラクション(警笛)に似ている。

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初期の、本当に初期のころの原付バイクのクラクションは、ハンドルに取り付いてあった。そのクラクションは、ラッパの口元に丸いゴムボールが付いた形状で、そのゴムボールを握りツブスと警笛がなるものだった。

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母が取り出した器具は、そのクラクションの金属部分をガラスにして小さくしたものと酷似していた。
クラクションと違うもう一点は、ラッパの開口部とゴムボールの中間に「空洞になった球状の出っ張り」があった。

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母は洗面器のお湯に、その器具の開口部を浸して暖めた。そして、ラッパの開口部を丹念に拭き始めた。
そこにいた全員はこれから母が「一体何をするのか」息を呑んで、その行動を凝視していた。

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そして母「ミッちゃん、姿勢良くしてくれる」と言って、ミッちゃんの乳頭部をそのラッパの開口部の中に入れた。
ミッちゃん「あ、ハイ」。ミッちゃんは、母がラッパを使う意味を理解したのか、胸を突き出すように姿勢を良くした。

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母は、左手でラッパの開口部をミッちゃんの胸に押し当てたまま、右手で茶色のゴムボール軽く握った。
ゴムボールの先端に、小さなツマミがあってそこから空気が抜けているようだった。

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母は、また軽くゴムボールを握る。母がゴムボールを握るタビに、ミッちゃんの乳頭がガラスのラッパの中に少しづつ吸い込まれて行くのが見える。

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2008年4月23日水曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母はその洗面器に鉄ビンのお湯を足しながら、片手で湯加減をみている。
母「じゃー、ミッちゃん。また胸を開いて、今度は仰向けに寝てちょうだい」といいながらサラシを4~5枚縫い合わせたものを洗面器にヒタシ始めた。

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ミッちゃん「これでいいですか?」。母「もう少し下がって。うん、そこでいいわよ」
ミッちゃんは仏壇を頭にして横になったが、仏壇の棚に向かって右下にはタンスが(「)の逆向きに置いてあるため、南からのヒカリが遮断されて、狭い我が家で昼間でも一番暗い位置だった。

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母は湯気のたったサラシを熱湯がハネないように、ゆっくり絞りそれを、ミッちゃんの胸におおい始めた。
母「熱い?」。ミッちゃん「いえ、大丈夫です」

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母はもう一つのサラシをヒタシした。当時、タオル地のものはなかった。多分、タオル布地を大量生産する技術が浸透していなかったのだろう。

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母は、ミッちゃんの胸におおったサラシを新しいものに変えながら「今日は、赤ちゃんどうしてるの」。
姑「出てくるとき、チチをヤッたんだけど、足りなくて泣き疲れて寝ている間に来ただよ」

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母「ジーちゃんが見てるの」。姑「うだ。今頃・・・・」言いかけてやめた。
母「ミッちゃん、今から胸全体をマッサージするけど痛くないようにスルけど、痛かったら言ってちょうだい」。ミッちゃん「はい」

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母は、少し赤く上気したミッちゃんの胸をマッサージし始めた。母「赤ちゃん何ヶ月だった?」。
ミッちゃん「2ヶ月です」。母「初産の子は大変だけど、バーちゃんが色々心配してくれて良かったね」

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ミッちゃん「はい、助かります」。母、姑の方を見て「外孫いたっけ?」母、親しみを込め、少しナマって話す。

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姑「んだ。ノリコが二人とマサコが一人だー。だどもヤッパリ内孫は可愛いなー」。母「うだっぺー」
姑「だけど、男ッ子も欲しいやな」。母「でも、一姫二太郎で最初は女の子がイカッペ」

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姑「うんだ、うだ。男ッ子は育てんが難しいし、女ッ子は大きくナット、カシキ(炊事)やらマメに手伝ってくれっかんね」

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姑「だどもオメラガ、アンちゃんはマメだね」。
母「この子は良く働く子で助かります」母、急に標準語に戻る。

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2008年4月22日火曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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鉄ビンは、全体が鉄でできている。柄の部分も鉄だから、当然素手では熱くて持てない。私は、鉄ビン用の厚手の布を手に取って、鉄ビンを掛けてあるカマドの方に向かった。そのカマドの位置は、母の座って居る位置からは死角になる。

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私が、湯気を出している鉄ビンの柄をツカム体勢に入った瞬間、「タカシ、鉄ビンはカーちゃんがヤルから、お前はバケツを『上がり口』持って来て」と母の声がする。

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私「えっ、鉄ビンはいいの?」。母は座敷からの「上がり口」を下りながら「ヤッパリ危ないから、カーちゃんがやるよ」。私は一瞬に、緊張がほぐれて「うん。分かった」。

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水道などない時代だが、我が家には井戸がなかった。そして大家の井戸は、我が家の裏の竹林の中に有るが、私達家族が住む、何年も前に涸れていた。

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我が家の飲料水は、となりの山田のジーの井戸からもらい水だった。台所から、その井戸まで往復25メートルくらいだが、その水くみは私の仕事だった。

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その井戸はポンプ式ではなかった。5メートルほどの竹竿の細い先に、ヒモで「くくり付け」てある小さなバケツ(約5リットル入り)で井戸水をくみ上げるのだが・・・・。

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その竹竿のバケツを井戸の中に少しずつさげて行き、バケツが水面に付いたら、バケツ寝かせて水を汲んで竹竿を引き上げる。このくみ上げ作業二回で我が家のバケツは一杯になる。

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特別の事がない限り、これを二往復すると「我が家の一日の飲料水」が確保できる。小学校の高学年になる頃には「風呂の水汲み」も私の仕事になった。この仕事は私の腕力と足腰を鍛えてくれた。

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このバケツは、ホコリが入らないように古新聞紙でおおい、いつも台所の入り口に置いてあった。私はそのバケツにヒシャクを入れて「上がり口」に置いた。

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母は、座敷に上がり、用意して有った古新聞の上に鉄ビンを置いた。やはり古新聞を引いた洗面器を私の方にずらして「タカシ、ここに入れて。」と言う。私「どのくらい?」

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母「うん。お前のお茶碗で4杯くらいかな」。私「コンくらい?」。母「うん。いいよ」


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2008年4月21日月曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母「タカシ、カマドの鉄ビン持ってきて。それと洗面器もだよ・・・・」。私「うん」

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我が家の台所(4畳程度)は、母屋(半分はマデヤ=農業用納屋)からのヒサシだが、屋根も壁もワラで覆い、床は土間だった。

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その台所に、鋳物製のカマドが二つあった。一つは炊飯用のカマドで、もう一つは少し小振りにできたカマドで、味噌汁や湯沸かしに使うものだった。

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カマドは台所の中央付近に置いてあるが、火災を避けるために母屋の土壁を背にして置いてある。台所の出入り口を出ると、我が家と大家の家との間に幅1.5メートルほどの短い通路が、庭に続いている。

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台所のワラ壁は燐家との生け垣に続く境だが、出入り口の右端に畳み半畳ほどの「石製の洗い場」があった。その洗い場は、食器、野菜、洗米、洗面はもちろん、当時は裸足で歩くことが多かったが、その足を洗う事もあった。まさしく、なんでも洗う、洗い場だ。

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この農村地域は今でもだが、下水などないから洗い場から流した水の行く先は、1メートルほど掘った穴から自然浸透するのを待つだけだ。当然、夏などは腐った水にボーフラがワキいて、蚊の発生源となる。

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梅雨時などは、その水が溢れて二件の燐家の通路に溢れ出すが、その通路も採石さえ引いていない、土がむき出しの通路で、溢れた流し水を気にも留ず自然浸透を待つだけだ。その洗い場に陶器の洗面器は置いてあった。

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私は、その姑と並んで台所の「出入り口」に居たから、まず洗面器を母に渡した。
洗面器を受け取った母は、姉と並んで座っていた妹(当時4才)に「サチ。アンちゃんのところへ行きな」と言い、妹の手を私に渡した。

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姑が「サッちゃん、大きくなったなー。おばちゃんと一緒にイッペ」と妹の頭を撫でながら、妹の手を握ってくれた。「妹は何が始まるんだろう」と少し緊張した顔だったが、温和しくその姑の手にツナがった。

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鉄ビンは、鉄製のヤカンだからかなり重い、その鉄ビンに1リットルほどの熱湯が入っている。昼食に使ったカマドのオキ火で鉄ビンは沸騰している。

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2008年4月18日金曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母はその嫁の肩を少し触り始めた。母「ミッちゃん、向こうむいて」。母は、向き合っている、その嫁に仏壇の方を指さす。

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狭い我が家に布団を重ねたり、タンスを置いたりすると、使えるスペースは実質4.5畳(15へーべ)ほどしかない。
従って祖父(父方)の位牌は、壁に取り付けた棚に置いてあるだけだが、その棚を我が家では仏壇と言っていた。


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「はい」。嫁は母に背を向けて座り直した。その嫁の姿は母の影で私と姑にはほとんど見えない状態になる。
母はその嫁の肩を、軽く押しながら「肩、張ってるね」。
母は側にある座布団を、引き寄せて「ミッちゃん。胸しまって、ここにうつ伏せになって」。

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嫁「はい」。その嫁は仏壇を頭にして座布団の上にうつ伏せになる。母はその嫁の背中や腰を押し始めた。
母「ミッちゃん、下痢してない?」。嫁、ためらいがちに「少し・・・・」。

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母「いつから?」。嫁が小声で「おとついからです」。
母「えっなに、おとついから!」大きな声で聞き返す。嫁「はい。そうです」

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母、嫁の背中を指圧しながら「食欲もあまりないでしょ」。嫁「はい」
母は姑の方に振り返って「それじゃー、チチが出ないの当たり前よね」。姑「・・・・そうだったの!」

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母、嫁の肩胛骨の裏側を強く押して「これ痛い?」。嫁「はい」。母「ここツライでしょ」。嫁「はい」
母、嫁の腰の部分を押しながら「これも痛いよね?」。嫁「はい。痛いです」
母「これも痛い」。嫁「はい」

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母「じゃー、この肩胛骨を上にして横に寝て」。母、しばらくその部位を指圧したり、揉んだりしていた。
母「少し、楽になったでしょう。身体暖まってきた?」。嫁「はい。あったたまって、気持ちいいです」。

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母「だいぶ、ほぐれたね。じゃやーミッちゃん、またうつ伏せになって」。嫁「はい」
母は、私と姑に背中を向けたまま「痛い」と言っていた嫁の腰を、しばらくの間指圧したり、揉んだりしていた。

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母「うん。背中と腰は、だいぶほぐれたね。じゃー、ミッちゃん今度は、こっち向い座って」。
嫁は、母の方に向いて座りながら「なんだか、身体が軽くなりました」。

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母は、額の汗をヌグイながら「顔色もだいぶ良くなったね」
母「じゃー、また胸出して」。嫁、ハッキリとした口調で「はい」


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2008年4月17日木曜日

母の手技、マッサージで母乳はでるか?

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母の手技がマッサージなのか、指圧なのか或いはアンマなのか正直分からない。
現在、法的に手技療法のジャンルは①アンマ、②指圧、③マッサージ、④柔道整復師、⑤理学療法、⑥オステオパシ、⑦カイロプラィック、⑧整体、⑨鍼灸治療などがある。

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近年、注目されている代替療法では、これに「手かざし」などの伝承療法も加える。こうなるとただ手技療法と言ってもかなりの分量でもあり、怪しげな療法も出てくる。

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私は、母が施術している現場を子供の頃に二~三回と大人になって一回見ている。そこから想像すると②と③の指圧とマッサージを合体したような手技と思える。

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ある日、6畳一間に押し入れしかない「狭い我が家」に、うら若い女性とその母親らしいお客が訪れた。
その母親、困惑の顔で「マデヤのカーちゃん。オラが嫁、胸が張ってるだが、チチがでないんだよ。なんとかなるぺか?」

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母はその嫁の方を、優しい眼差しで「ゼンゼンでないの?」
嫁「午前中は何とか出るやが、午後んなるとゼンゼンです」

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母「タカシ、お前そこ少し片付けて、タータ(障害者の姉)を奥へ連れて行きなさい。それでお前はこっちに来なさい!」母はそう言って私に、カマドがある土間の台所の方を指さす。

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母、嫁に「ミッちゃん、ここへあがって来て!」。嫁「はい」。

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母「じゃ。胸出して」。嫁「はい」当時はブラジャーなど、まだ誰も付けていない時代だから、その嫁がカスリの合わせの胸を開くと、手ぬぐいを巻いた中から乳房がそのまま出てきた。

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母は、その嫁の乳頭をみて「まだ、開いていないね」と言う。乳房の上の胸を押して「ここ痛いでしょ」。
嫁「はい」と一瞬顔をシカメル。母「これは?」。嫁「それも痛いです」

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母「じゃーこの腕上げて!」。母はその嫁の、乳房から腕につながる筋をタドリながら押して「これも痛いでしょ」。嫁「はい。痛いです」

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嫁の姑不安げに「チチでるかね?」。母「大丈夫よ!」とキッパリ言う。

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2008年4月16日水曜日

母、マッサージの習得

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かつぎ屋さんは、朝から雨の日は休日だ。それは「かつぎ屋さん」の専用市場が露天で有ることや、駅から客宅まで徒歩で移動するためだ。もちろん、雨でもビジネスに行く「かつぎ屋さん」もいるが、ごく限られたことだった。

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しかし転落事故以後の母は、雨でも東京に出かけた。時にはカゴなしで出かけることもあった。それはマッサージの授業のためだった。

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マッサージの授業は週に2~3回あった。授業と言っても今のように専門学校などない時代だから、腕の良いマッサージ師を自分で探しだして弟子入りするか、知人の紹介で弟子入りする以外に方法はなかった。

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母はあえて、自分で師匠を探し出して弟子入りした。もちろん授業料は有償だが、師匠の都合に合わせてのレッスンだから、師匠から言われた日時に出かける必要があった。

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母が「かつぎ屋さん」に疑問を持ったとき、なぜマッサージ師になろうとしたのか、母の口から聞いたことはなかった。しかし、多分「富山の兄」の影響だと思う心あたりがある。

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母の兄弟は10人くらいいて、20才ほど年上の姉がいるが、あとは男兄弟ばかりだった。母の下に弟が1~2人いたようだが若い内に病死したようだ。

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姉の下に男兄弟が二人いて「長男の兄は昭和の初期に東京の大学を出た秀才だった」と母が何かにつけ自慢していた。付け加えて当時、祖父の事業(高電圧鉄塔建設業)が順調で、高岡市でも屈指の富裕であったことも自慢だった。

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打って変わって次男の兄は肉体派で、柔道のかなりの猛者だったようだ。この兄が中学生(五年制)の時には、地元では稽古相手に困るぐらの猛者だったらしい。そんなことから近在の警察道場に出稽古に行ったりしていた。

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母は「二人しかいない女の兄弟」で有ることから、兄弟から随分可愛がられたようだが、特にこの次男の兄が幼少の母を可愛がってくれたようだ。そのためか母は、生来甘ったれな性格だった。

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母は、三、四歳くらいの時に、父親を病死でなくしているが、母親が仕事をしている間この兄が、柔道の出稽古によく、幼い母を連れ歩いてくれたようだ。

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柔道にはケガが付きものなので、当時、柔道の有段者になると柔道整復術を心得ていたようだが、この兄は柔道整復師の資格と鍼灸治療の免許を持っていた。

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多分母は、同僚のケガを治している兄の姿を、何度か見ていて幼いマブタに、焼き付けていたと思う。

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2008年4月15日火曜日

戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。 母、九死に一生

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母はカゴを背負ったままプラットホームから線路に落ちたが、イクツカのラッキーが重なって軽傷ですんだ。

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ここからは、この事故の状況を見ていた駅員が母に話したことを、後に母が私達に話してくれた。

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母は軽くなったカゴを背負い、手さげカゴを片手にもう一方の片手に傘を持っていた。足を滑らせた瞬間、走り高跳びの選手のような体勢で両足が宙に跳ね上がったそうです。

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そして同時に「手さげカゴ」を持つ手が濡れていたせいか、カゴの重みで手から滑り落ちたそうです。ただ、傘はシッカリ持っていて、背負っていたカゴの程よい重みでカゴを背にして線路に落ちたそうです。

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その落ちたときの体勢は、背面跳びの選手そのものの体勢だったようです。そして背負ったカゴが衝撃を緩衝し、加えて傘がパラシュートの役割をしたようです。

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落ち方は派手だったが、その割に母のケガは軽傷ですんだ。母のケガは落下した時の衝撃で右足を線路に強打したが、骨折はなく「打撲でだけですんだのです。

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加えて、前の電車が出たばかりで次の電車がくるまでに、かなりの時間的余裕があったようです。また、駅員が近くにいたラッキーが重なり、すぐに救助されて野方駅の近くの病院に担ぎ込まれたそうです。

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父はその日の夕方帰宅した。私「カーちゃんは?」。
父「うん。バーちゃんの風邪が、カーちゃんにウツッタみたいだ。みんなにウツスと困るから一週間ぐらい帰らないよ」。
私「うん。分かった」父の明るい表情に、私は何の疑問も持たなかった。

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母は、この時の話をするタビに、この事故の二年前に死んだ(三回忌の)祖母の話をした。
母は、「富山のバーちゃん(母の生母)に、助けられた」と私達に話した。

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そして母は、このケガが切っ掛けで「かつぎ屋さん」ビジネスに疑問をを持ち始めた。その後母は多少の雨の日でも「かつぎ屋さん」ビジネスに出かけていった。

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そんな日の母の荷物は、いつもの半分ぐらいにしていた。
そしてお客から得た情報をもとに、上手なマッサージ師を探し出して、足の治療を受けながらそのマッサージ師の治療技能を吟味する日々が続いた。

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戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。母、線路に転落

母がケガをしたその日は、午後から小雨が降っていた。母は野方駅商店街で「かつぎ屋さん」ビジネスの大半を終えていた。


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「かつぎ屋さん」は重い商品をなるべく軽くするために、その日の第一件目の「客宅」で商品の大半を販売してしまう。

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母が「第一件目で荷下ろしする家」は何件か有ったが、いずれも客と言うよりファミリー的存在だった。そこで荷下ろしすると、「その家」を中心に小分けにした商品を周辺のお客に届けたり、周辺の客に「その家」まで来て貰ったりしていた。

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そこで、商売が終わると母は、少し遅い食事を自分が持ってきた総菜を提供して、「その家人」や商品を買いに来た客などと一緒に昼食を摂っていた。

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昼食を摂っているときの母は、もうただの主婦の顔になっていた。話す内容は、子供の学校のこと、商店街の出来事、その家のご主人の仕事のこと、嫁がいないか、女中がいないか、物価が高いの安にのなどだ。

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母は、子供の私にでも「少しお節介ではないか」と思うぐらい、頼まれ事を安受けする単純な女だった。その単純さがお客を引きつけたようにも思う。また、困っているヒトを黙って見過ごしにできない性格だった。

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その日も野方で商売を終えたとき、商品の大半を売り切って「かつぎ屋さんのカゴ」には一斗(15Kg)の米、野菜、総菜、タマゴなどが少し残っていた。

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残りの商品は鷺宮(野方の下り、隣駅)で売って、帰りに叔母の家によるつもりだったようだ。当時、野方駅のプラットホームに屋根はまだなかった。
雨に濡れていたホームを歩いていた母が一瞬脚を滑らせてカゴを背負ったまま線路上に落下した。

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2008年4月12日土曜日

戦後を生き抜いたかつぎ屋さん。 母、線路に転落

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昭和25年(B/C1945年)の朝鮮戦争は日本の経済事情に大きく貢献した。いわゆる戦争需要と言う事だが、アメリカ軍の統治下にあった日本は、アメリカ軍の物資の調達により、戦後の疲弊した日本経済が復興の兆しを見せた。

Great Mother日本政府はアメリカ軍の物資の輸送に、旧日本兵を徴兵した。当然のことだがアメリカ軍は、戦略情報漏洩を防ぐためやにも、雇用する旧日本兵にソ連の捕虜経験者を避けた。
ここでもレットパージ(共産党排斥)から、一番無難な南方派遣兵(東南アジア派遣兵)を中心に雇用した。

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南方派遣兵はアメリカ軍と最も激しく交戦した旧日本兵だ。それがアメリカ軍の傘下になるのだから、アメリカ兵と旧日本兵の間で、小競り合いが絶えなかった事を、後に父から聞かされた。

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朝鮮戦争当初にアメリカ本国はマッカーサー元帥に充分な派兵を承認しなかったため、やむなく旧日本兵を雇用するわけだが、戦火の中での荷役作業は戦争経験の旧日本兵を選択する以外なかったようだ。

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父も徴兵にとられたが、母は障害者の姉と3才の私と乳飲み子の妹をかかえ、生家の高岡(富山県)からたった一軒の親戚(叔父の関連)を頼って、茨城に移り住んだばかりだった。

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茨城に来てから母は「かつぎ屋さん」、マッサージ師、生保外務員と三つの仕事に就いた。そして、マッサージ師の仕事と「かつぎ屋さん」は同時並行だったが、有ることが切っ掛けになった。

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その頃我が家では、父が病気で家庭療養中で、母の「かつぎ屋さん」で生計を立てていた。そんなある日の昼下がり一通の電報が父を震撼さた。それは、母が野方駅のホームから転落して入院したと言う電報であった。

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その時私は、小学校二年生ぐらいだった。電報は私が登校中の事だったが、帰宅して父の様子にただならぬ、予感を感じた。

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父は、戦場で死線をさまよっただけに、子供の私から見ても度胸の据わった男だった。当時、我が家の近所には力自慢や乱暴者が沢山いたが、父がヒトニラミすると誰も、父に逆らう者はいなかった。
そんな父がいつもとは違う懸命に平静を装うが「なにか落ち着かない、顔が青ざめている」

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当時は、電話など警察か村役場でもなければない時代だから、通信手段はモッパラ電報だった。電報だけでは母の様子が皆目掴めないから、父は不安だけが募ったのだろう。

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父は夕方になって私達に言った「カーちゃん。今日は叔母さんの家に泊まるから帰らないよ」
私「・・・・・」
父「父ちゃんも明日、東京に行くよ。バーちゃんがグアイ悪いらしいから」。私「うん。分かった」

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翌日、父は朝一番のバスで東京に出かけた。

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2008年4月10日木曜日

20)かつぎ屋さんの戦場は鉄道だったが・・・・

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松川事件
昭和24年8月8日(B/C1949年)東芝松川工場の人員整理わくを発表した。そのため松川工場の労働組合は17日夜明けから24時間ストラキを予定していた。

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ストライキ当日の17日午前3時09分、青森発上野行きの列車が福島県松川駅付近カーブで機関車と客車3両が脱線し、機関士と機関士助手2名と乗客630人の内4人が負傷した。

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事故原因はレールの継ぎ目板がはがされて、枕木を固定する杭釘が大量に抜かれていた。福島検察は複数の人間による計画的犯行と断定した。

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昭和25年(B/C1950年)福島地裁第一審裁判では、国鉄労働組合福島支部組合員と東芝松川工場の労働組合の共同謀議で首謀者国鉄労組から10名、東芝労組がらの10名を有罪とした。

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その後の上告で、両労組の共同謀議がなかったことを証明するメモを検察が隠し持っていることが判明して、起訴された20名は無罪となった。

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昭和25年は朝鮮戦争(B/C1950~1953年)は勃発した年でもあった。大戦中、朝鮮半島は日本軍が統治していたが、朝鮮の主要な政治家は海外亡命していた。終戦後北朝鮮の指導者になる金日成はソ連に、韓国の指導者になる李ショウバンはアメリカに留学していた。
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朝鮮戦争は、ソ連、中国が擁護する金日成とアメリカが擁護する李ショウバンが、朝鮮半島の統治をめぐる戦争だが、アメリカにとって日本はこの戦争の最前線であって、重要な地理的拠点であった。

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しかし、当時の日本には在日朝鮮人が住み、ソ連の捕虜時代に共産思想で洗脳された日本人が労働組合の中枢にいて、アメリカが油断すれば東アジアが共産圏一色になる危険性があった。最悪のシナリオではアジアの大半が、共産圏になることも想定できた。

Great MotherそのようなことからGHQは、特に国鉄労組、日教組、逓信労組、地方自事体労組など行政機関、または大手企業の労組をターゲットとした、レットパージ(赤狩り)政策を当時の政府と画策した。

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いずれにしても当時の国内の不安定要素が、当時の日本の流通機構の中枢であった鉄道に集中して、大きな事故や事件の大舞台が鉄道であった。従って鉄道公安官の警察権も絶大であった。

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このような社会情勢で鉄道を利用して東京にでたて行く、当時の「かつぎ屋さん」ビジネスは、常に過酷な心身のストレスを受けていた。

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2008年4月9日水曜日

かつぎ屋さんの戦場は鉄道だったが・・・・

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これら昭和20年代(B/C1945~1954年)の鉄道事故の中にある下山事件、三鷹事件、松川事件と昭和37年にあった三河島事件は、昭和史を語る場合に欠かせない事件でもあった。

Great Mother下山事件
昭和24年(B/C1949年)7月6日初代国鉄総裁下山定則が常磐線綾瀬駅で轢死体で発見された。同総裁は7月5日三越本店(日本橋)に買い物に行ったまま、行方不明になっていた。

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1949年、GHQ(米国占領軍)と当時の政府(吉田内閣)が、行政機関内に就労する共産党員またはその同調者100万人の首切りを密かに計画していた。こりをGHQはレットパージプランと言っていた。

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国鉄労働組合の中心的存在は共産党員だったが、下山総裁は行方不明になった7月5日に国鉄当局は、組合員95,000人の人員整理案を発表する日だった。

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下山事件は自殺、他殺両面から捜査されたが結局、時効成立そるまで、その首謀者を逮捕することができなかった。

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三鷹事件
昭和49年7月15日国鉄中央線三鷹駅の車庫から無人電車が走り出し、駅改札と階段をぶち抜き、駅前交番を全壊して、さらに民家に突入6人の市民が死亡、重軽傷20余名という事件だった。

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翌16日吉田首相は「下山事件同様に共産主義者の扇動による事件」と声明を発表した。
17日国鉄労働組合の共産党員20名近くが逮捕された。
21日国鉄組合員94,000人が国家再建の為という名の下で解雇された。

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当時の検察は、9名の共産党員と共産党員ではない竹内景助のが事件の首謀者として裁判になった。
GHQは最高裁判所による介入を扇動したが、東京地裁裁判長鈴木忠吾は「司法介入」として拒否した。

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共産党員の9名はアリバイが成立して無罪となった。竹内景助は最後まで無罪を主張していたが獄中死した。

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2008年4月8日火曜日

母と二人で鉄道公安官に勝った。私の「泣き」を褒める祖母

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その日、母の「かつぎ屋さん」は何時もより、かなり早く終わった。
祖母が住む、叔母(父の異父兄弟)の家は沼袋だが、沼袋駅と野方駅(高田の馬場始発・・・西武池袋線)のほぼ中間で野方駅から1.5Km~2Kmほど有る。

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叔母は、私より一歳年下の女の子と、年子の男の子がいた、私は叔母の家に行くとこの従兄弟達と会えるのが楽しみだった。

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叔母の家は長屋の一室で、我が家と同じ6畳一間であった。そこに叔父と祖母が加わって5人暮らしだった。
祖母は、小柄で若いときは可愛い女をホウフツさせる人だった。
しかし、その日、祖母は病気ではなかった。

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母は、お土産のタマゴとザッコ(小さな川魚)の佃煮を祖母に渡しながら、今日の公安の一斉監査の話を始めた。

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母「昨日、東京駅で一斉があったと聞いたから、今日はもしかしたら上野か日暮里と思ったら、やはり張り込んでいたの」
祖母「よく、没収されなかったね」

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母「この子が必死で『カーちゃん連れて行かないで!』って泣きつくものだから、公安も根負けしたみたい。
それに、荷物もいつもの半分以下だったし、話の分かる公安でタスカッター」
叔母「へー、タカシ君偉かったネー」

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母「公安に『おい、隠れてもダメダヨ』って言われたときには、商品没収されたら、明日の仕入れはどうしよ・・・・と。目の前が真っ暗になったもの」

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鉄道公安は、現在のJRが国鉄と呼ばれていた時代の独立行政機関だが、1947年に設立され、当時の警察と同格の司法警察権を有していた。

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当時は今のように高速道路網は勿論、国道も未整備だったため、有効な移動手段は鉄道だけだった。ちなみに
現在、常磐線と平行する6号国道はなく、江戸時代からの曲がりくねった水戸街道があっただけだ。当然、道路事情も悪く今の2倍の時間を要したと思う。

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当時の政府は、先ず鉄道を整備を第一優先にした。従って昭和20年(B・C1945~1955年)代は鉄道事故の件数が極めて多い時代でもあった。

Nostalgia Travel昭和元年~19年(B・C1925~1944年)の鉄道事故件数は12件だが、昭和20年代の10年間で13件の鉄道事故が記録されている。

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2008年4月7日月曜日

母と元海軍兵の鉄道公安官が敬礼する

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年配の公安は、母が山手線に乗る途中で、また別の公安に呼び止められないように、母に同行してくれたようだ。新宿行きの電車がホームに近づいてくる。

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年配の公安「樋口さん?」。母「エッ、はい」。

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公安は「かつぎ屋さんの認定書」で確認した、名字で母を呼んだ。「私、公安二課の木村と言います。何か困ったことが合ったら、担当公安官に私の名前を言って、連絡下さい」
母「・・・・ありがとう存じます。」

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電車の先頭が、私達がいるホームの前をブレーキを掛けながら通過して行く。
公安が、私の頭を撫でながら「坊や、なかなかいい根性しているね。親孝行するんだよ」

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母「木村さん。これ気持ちです。受け取って下さい」
母はタマゴを2包み(20個)と大福3包みを「手さげカゴ」から出した。

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公安「いや・・・。小生はそんなつもりで・・・」
母「分かります。でもこれは、私のささやかな気持ちですから、受け取って下さい。お願いします。」

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電車のドアが開く。母「電車が出てしまいます。お願いします。」母の顔が真剣だった。
公安「お気持ちだけで結構なのですが・・・・」

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母「今朝取れたてのタマゴと、作りたての大福です。お昼に皆さんで召し上がって下さい。お願いします。」
発車の笛が鳴る。
公安「分かりました。ありがたく頂戴します」

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母と私は電車に乗る。ドアが閉まる。年配の公安が私達に敬礼をする。私は無邪気に敬礼を真似た。母は頭を下げてオジギをする。

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電車が走り出して、年配の公安の姿が見えなくなる。母が頭を上げた目には涙が溢れていた。

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その日、母は野方駅の商店街の建築屋の家で一斗の米を売った。そして、公安の一斉監査で注文通りに、米を運べなかったことを詫びた。その後、商店街の何件かの、お客さんの家を周りながら詫びて歩いた。

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2008年4月6日日曜日

母と元海軍兵の鉄道公安官との会話

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年配の公安は母と私の歩調に合わせ歩きながら話し始めた。「ご主人の帰属艦は戦艦ですか?」
母「はい。戦艦『比叡』でした」

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公安「そう。それじゃミッドウエイ海戦で沈没だったね」。母「いいえ、ガダルカナル島沖です」
公安「あ~そうだったね」。母「ダンナも海軍ですか?」

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公安「エエ、横須賀基地の守備隊です」。母「主人も帰還後は、基地勤務でした」
公安「どこです?」。母「霞ヶ浦です」

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公安「エッ。それじゃ司令部ですか?」。母「はい。通信部にいました」
公安「空襲、激しかったでしょう?」。急に公安の言葉使いが丁寧になる。

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母「ええ~。もう毎日のようにありました。私達は官舎に住んでいましたが、主人は基地勤務に出ったきり、いつ帰れるか分からない状態が何日も続きましたから、毎日が生きた心地がしませんでした」

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公安「そうでしょう。横須賀も激しかったですが、司令部は凄かったと聞いていました」
母「この子の上に、19年8月生まれの姉がいますが、その子をオンブしながら終戦までのほぼ1年は、防空壕に住んでいたようなものでした。そのため、上の子は風邪をコジラセたのが元で、脳性小児麻痺になってしまいました」

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前方から、さっきの公安ではない、若い公安が走ってくる。立ち止まって年配の公安に敬礼して、また走り出す。年配の公安は母と話しながら敬礼を返す。
年配の公安「お嬢さん、小児麻痺ですか?」。母「はい」

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公安「お嬢さん。今もご健在なんですか」。母「はい。この子の妹と二人で、留守番しています」
公安「それじゃ。障害は軽かったですね」。母「いいえ障害一級で、重度障害です」

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公安「エッ! それで、留守番ですか?」。母「近所の友達が、良くしてくれて、面倒見てくれています」
公安「そうですか。ご近所に恵まれて良かったですね」

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山手線のホームについて10分位すると新宿方面行きの電車が来た。その間、何組かの公安とすれ違ったが、
その全員が、年配の公安に敬礼するとき、立ち止まって敬礼していた。それを見て私は「へー。このオジさん、偉いんだ。」と思った。

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2008年4月4日金曜日

母と鉄道公安官のバトル

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年配の公安が「オバサン、米持っているね。」。
母「持ってます。でもこれは、売り物ではないんです。姑のお見舞いに、持って行くんです。」

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公安「お母さん、病気なの?」。
母「はい、中野に住んでますが、三度、三度食べれば元気になると思うです。母が、この子のにも逢いたいと言うので二人で、お見舞いに行くんです」

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公安「あんたのお母さん」。母「いいえ、主人のです」
公安「ご主人の。ご主人戦死したの?」。母「いいえ帰還しましたが、戦傷で元の仕事に復帰できなくて、母を妹夫婦に見て貰っているんです」

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公安「ご主人、海軍? 陸軍?」。
母「海軍です。所属艦が沈没した時負傷しました。」
公安「海軍。私も海軍だが・・・・。奥さん、くに(郷里)は茨城でも千葉でもないね」
年配の公安は母の言葉に、茨城県や千葉県の訛りがないことに気づいたようだ。
母「ハイ。富山です。主人は浅草生まれですが親戚を頼って、今は食料事情の良い、茨城に住んでいます」

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公安「米、何斗持っての?」。母「一斗(15Kg)です」。公安「仕事なんで一応、見せて貰おうか!」。
 *一斗(15Kg)x4=一俵(60kg)

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「竹製の四角いカゴ」は厚めの木綿生地の大きな風呂敷に覆われている。その風呂敷はカゴ2つ分位包めるほどに大きい。広げれば二畳(1.8mX1.8m)位有るだろう。
この風呂敷はカゴの上に、更に荷物を積み上げた時、全体を一体化して荷崩れを防ぐ効果がある。母はそのカゴの荷物を解き始めた。

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今日の母のカゴには、上からトマト、なす、サツマイモなど野菜類、一番下に米が入っていた。しかし、いつもの半分以下だ。

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米は二斗まで入る「厚手の専用茶封筒」に入っている。一斗ずつ入れた方がカゴに収まりやすいし、販売し易いロットであった。

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手さげカゴも、いつもは二つで両方の「手さげカゴ」に、タマゴが200個くらい入っているが、今日は一つだけだ。今日は、タマゴが50個くらいと大福やザッコ(小さな川魚)の佃煮が何パックが入っているだけだった。当時、これらの食材は、東京では簡単に手に入らない貴重な食材だった。
母は米はカゴから出さずに、年配の公安に傾けて見せた。

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公安はカゴを覗きながら「奥さん。鑑札は持っている?」。母「ハイ」。
母は、首からさげたヒモの先をたぐり、胸の合わせから定期券を出し裏返した。それを公安に差し出し、「かつぎ屋さん」の認定証を見せた。

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公安「奥さん。事情がお有りようなので、今日は『注意』で済ませますが、次回は全商品没収ですよ」
公安は、いつの間にか母を「オバサン」ではなく「奥さん」と呼んでいた。
母「ハイ分かりました。ありがとう御座います」

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公安「中野じゃ、山手線ですね。一緒に行きましょう」
母「えっ。アッ、ハイ。ありがとうございます。」


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2008年4月3日木曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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母にとって、私は4番目にやっと生まれた待望の長男だった。母の初産は女児で生まれて間もなく死んだ。第二子も年子で女児だが、これも生まれて間もなく死んだ。

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三女は姉だが、物資の極端に不足している終戦の一年前に生まれた。一歳の姉が、風邪をこじらせた時、医者は処方する薬がなかった。高熱が何日も続いて、手をこまねいている内に、脳性小児麻痺になった。そして、4人目が待望の男子の私だった。

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当時の日本には「男子の産めない嫁は一人前ではない」そんな風潮がまだあった。「男子は将来、嫁を『めとり』家系を継続してゆく」江戸時代の武家の名残が、まだ色濃く残っていた。

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最近の話だが、3年ほど前に、雅子妃に男子が生まれない事から、法律を改正して女性天皇家継承が可能にしようと真剣に討議されたことがあった。当時は庶民意識の中にも、そんな意識が根強くあった。

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父が船乗りで不在な事が多かったことから、母は私が3~4才の頃から親戚の葬儀に、父の代行と言うことで私を参列させていた。

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その頻度は、私が成長するにつれ多くなった。質屋や小口金融に行くときなど、田舎道を往復10kmも、歩くことになるが、冬など帰り道は暗くなる「男の子が側にいると心強い」と言って、私を同行させた。

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そんな母の心理を受け止めた私は、物心付いたときに「いずれ家長になる重責」の刷り込みが完成されていた。
だから「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」と、母に言われたとき5~6才だった私だが「どうにかしなけきゃ」と一瞬にして反応していた。

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年配の公安が、若い公安に言う「ここは俺がヤルから、お前は向こうを手伝え」と山手線の方を指さす。若い公安「ハイ、分かりました」と敬礼して走り出す。


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2008年4月2日水曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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母は「公安」と言った。私は、鉄道公安を見たことがなかった。バスの中や、電車の中や「かつぎ屋さん」専用市場で母達「かつぎ屋さん」の会話に何度も聞く言葉だから「かつぎ屋さん」の天敵だと言うことは、子供ながらに分かっていた。

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階段の下で隠れている母は「ハット・・・」と慌てて、頭の手ぬぐいを取った。当時「かつぎ屋さん」の出で立ちは戦時中の女性の服装そのものだった。

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違うのは、防災ズキンの代わりに手ぬぐいを「姉さんかぶり」にして、クビに汗ふき用の手ぬぐいを巻いていた。そして服装だが、上は「カスリの合わせ」に、下は「カスリのモンペ」だった。足もとは地下タビだ。

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その姿は正しく、戦時下の女の戦闘服だ。男達が負けた戦争の尻ぬぐいをさせられている女が、今その男達に追い詰められている。

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母が手ぬぐいを、頭から取るのが少し遅かったようだ。二人の公安が現れて「オバサン」と声を掛けた。
一人はかなり若かった。年配の公安が大きな声で「オイ!オバサン隠れてもダメだよ」と言う。幼い私には年配の公安の年齢は、分からない。しかし父より、かなり若いのは分かった。

Great Mother警棒を手に持ち、拳銃を腰にさげている。鉄道公安を初めて見る私は一瞬「お巡りさんだ」と思う。我が家には普段、父がいないので私達が聞き分けがないと、母はよく「言うこと聞かないと、お巡りさんに連れて行って貰うよ」と言っていた。

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「でも、カーちゃんは、何も悪いことしていない。カーちゃんを助けなきゃ!」と思った瞬間、私は「カーちゃんを連れて行かないで。連れて行かないで・・・・。」と泣きながらワメイテていた。

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私は、ただ必死だった。屈強な大人を相手に私ができることは、泣きワメク以外になった。近くを通る乗降客が一斉に私達を見る。

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年配の公安が「分かった。分かった。分かったから坊や。カーちゃんは何処へも連れて行かないから。もう泣くのはやめな。」

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私は、興奮状態だったが「連れて行かない」の言葉に敏感に反応した。泣きながら「ホントウとかな?」と確認するように、年配の公安の目をのぞき込んだ。その目がさっきよりも優くなっていた。

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私は泣くのをやめたが「泣きシャックリ」が止まらない。

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2008年4月1日火曜日

母「タカシ。カーちゃんが捕まったら助けるんだよ」

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カゴの荷物は頭上から30センチ以上ウズ高く積み上げられている。この荷物を背負って、一番大変なのは階段を降りるときだ。

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体力がない、またはバランス感覚に自信のない「かつぎ屋さん」が、階段を下りるときは、先ず「手さげカゴ」を仲間に持って貰い、その仲間にカゴに縛り付けたヒモを、後ろに引っ張って貰いながら降りる。
「かつぎ屋さん」が階段でケガをする大半は、降りるときだった。

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先に降りた者はホームのベンチにカゴを乗せてから、今度は助けて貰った仲間を、助けてる。
階段を下りることに自信のない「かつぎ屋さん」はたいていの場合、到着駅で一人になると身動きがとれなくなる。従って、最寄り駅に助っ人を呼んでいるようだった。

Great Mother
日暮里駅で、ほぼ全員の「かつぎ屋さん」が階段を登り終えても、母は階段を登ろうとしなかった。いつもの半分ほどしかない荷物のカゴを下ろさずに、周りを見渡しながらジットして動かない。母の表情が何かキゲンが悪そうに見える。私は「自分が原因かとな~」と少し不安になった。

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しかし、母は一円札を5枚を出すと私に渡して「好きなもの買ってきな!」と売店(今のキオスク)を指さした。母のキゲンが悪いのは、自分のせいじゃない事が分かったのと、意外なお小遣いに私は嬉しかった。

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当時、我が家では、お小遣いなど滅多にもらえなかった。貰えても、私と姉と妹の三人で5円のお小遣いで買った物を分け合った。

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飴玉の周りにザラメをまぶした、小さな飴玉が3個買えた。甘い物があまりない時代だから、嬉しくて飴を母に見せると、一瞬いつもの母の顔に戻って「食べな」と言うが、すぐに緊張した顔に戻った。母は、頻繁に周りを見渡しながら、時折山手線の方向に視線をやる。なにかを待っているように見える。

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母がその場所に座り込んで15分くらいすると、遠くから笛の声が連発で数回聞こえた。母が「ヤッパリ」と言う。また連発で笛が聞こえる、山手線の方向だが電車は止まっていないから、発車の合図とは違う事は私にも分かった。

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「アッ」母が一瞬小さな声を上げた。「タカシ。こっち」と私の手を引いた。私は、母に引かれる、まま階段の下の空間の角に置いてあるゴミ箱の影に、かがんだ。

Great Mother母の怯える顔を見て、私も怯えた。母「公安だ。タカシ、カーちゃんが捕まったら助けるんだよ!」。私は声にならない声で「うん」とうなずく。

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